「トンデモ」の壁





いつも言っていることだが、人間は、自分の能力を超えるモノを、把握したり理解したりできない。これの典型が、上司の壁というか、カギカッコつきの「バカの壁」である。自分の能力以上の人材をみて「スゴい」と思うことはできるが、その能力を客観的に評価することはできないどっちがどれだけスゴいかは、評価者のほうが、どちらの被評価者よりも能力的に優れていなければ、把握できない。

イチロー選手でも松井選手でもいいが、プロのスポーツ選手の活躍をみれば、それがスゴいことはだれでもわかる。しかしスゴさはワカっても、どこがスゴいのか、なぜスゴいのか、キチンと理解することは難しい。それなりの説明はできるかもしれないが、一面的であったり、当を得ないものとなるのが関の山である。実は、トンデモ本や陰謀史観が出てくる理由はここにある。

きわめて能力の高いヒトならば、問題全体を客観的にとらえ、全体の構造をキチンと把握し説明することが可能である。だが、ここまで見切れる人は少ない。また一方で、高度に複雑化し、情報化した現代社会では、問題の構造も極めて難渋なモノが多く、平均レベルの能力では、理解や把握さえ難しいものとなっている。それは、人々は、自分から見えた範囲でモノゴトを理解したがるからだ。同じレベルの理解力に基づいた論説のほうが、安心して聞いていられるし、納得できる。

かつて、人々は天動説を信じていた。それは、そのほうが生活実感にあっていて、理解しやすかったからである。その後、地動説が受け入れられたのは、そのほうが数学的説明がシンプルになるからだが、これは近代に入って大衆教育社会が到来し、現代日本でいう「高校レベルの数学」を理解する人が過半を占めるようになったこととも不可分の関係にある。

二次元の視力しかない生物からすると、同じ物体が、三角形にも円にもなる「円錐」は、なんとも摩訶不思議な存在である。だが、三次元の物体を把握・理解できる我々にとっては、正面図が三角形で、平面図が円という「物体」が存在することは容易にわかるし、その全体像を想像してみることもできる。同様に、高等数学マニアには、各軸を固定した三次元空間への写像から、四次元空間の物体を全体像をイメージして萌える「怪人」もいる。

だから、トンデモ本や陰謀史観のロジックは、極めてシンプルでわかりやすいのが普通だ。それはまさに、そのレベルまでしか理解できない人のために、彼らが理解できる範囲で作られたストーリーだからだ。三次元で見れるヒトからすると、余りに単純でバカバカしい見方かもしれない。だが、二次元でしか見れないヒトからすると、それでも精一杯なのだ。それ以上理解させるほうが苦痛であろう。

詐欺師の語るストーリーも、単純でベタすぎて、コトの真相をわかっているヒトからすると、どう見ても怪しくおかしいモノが多い。だが、これも同じである。リアルな真相は、難しすぎて、全体を捉えられない人には理解できない。そんな難しい話は、聞きたくないし、聞いてもわからないのだ。だからこそ、簡単でわかりやすい話にはのってしまう。良い悪いではなく、それが、彼らの世界観のレベルとマッチしているかどうかなのだ。

人それぞれのレベルにあった理解があっていい。ただ、その結果は自業自得というだけである。痛い目に会って、学習してレベルが上がるなら、それもよし。何度痛い目にあっても、同じようにハマってしまうなら、それもよし。他人に迷惑をかけない限り、何を主張しようが、何を信じようが、自由である。どうか、勝手にやってくれ。そしてまた、それを見て周りがどう思うかも、これまた自由なのだ。


(09/10/16)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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