全体最適化





昨今「全体最適」が語られることが多くなった。かつて「自己責任」が流行語となると、本来の自ら責任感を持って行動するコトではなく、無責任な人間が他人に責任を押し付けるコトを意味するようになってしまった。「全体最適」もまた、「部分最適」しかできない人間の間で流行りだすと、全く逆の意味になってしまう可能性もある。ここらで一度、「全体最適」の意味をしっかり押さえておくコトも意味があるだろう。

たとえば、少子化による人口減を考えてみよう。GDPや消費市場の大きさといった、経済の規模を考える上では、人口の大きさというのは極めて大きな影響がある。可処分所得が二倍になるというのは、かなりの高度成長を続けなくては実現できないため、同じ人口で市場規模を倍増させるというのはそう簡単ではないが、人口そのものが倍増すれば、市場規模はたちまち倍増する。

国単位の話はさておき、地方自治体や商圏というレベルでは、日常的に見られる現象である。大型開発で人口が増加すると、そのエリアの消費市場は活性化する。昨今でも、江東区など東京の湾岸地区では、大型マンション開発が相次ぐことで、新しいショッピングセンターが生まれ活況を呈した。また、人口減少が続く過疎地を抱えた地方では、かつての街の中心エリアが「シャッター商店街」化してしまう現象もよく見られる。

しかし、視点を変えれば人口減も悪いことではない。エコロジーやサステナビリティーという面では、過剰人口が最大の環境負荷の原因となっている。人口が半減すれば、生活レベルを変えなくても、エネルギー消費やCO2排出は、確実に半減する。どんな省エネ技術より、どんな節約努力より、効果的である。エリアの人口が減ることは、地球環境という面からは、高く評価できるのだ。

昨今問題となっている「食糧自給」という面でも、構造は同じである。江戸時代、日本の人口は3000万人だったが、こと食料という面においては、砂糖や香辛料等に例外はあるものの、ふかひれや干しホタテに代表されるような、中国への食材の輸出を考えれば、完全な自給を達成していたといっていいだろう。当時と比べれば、飛躍的に農業生産性が高まっているため、6000万人程度なら、現代日本でも完全な食糧自給が可能といえる。

このように人口減少は、20世紀的な「大きいことはいいことだ」という視点からすると、悪しき問題と見えてしまうが、今問題にされているような、サステナブル・ライフスタイルを前提とすると、もっとも簡単な問題解決へのトレンドということになる。ここで大事なのは、環境が悪化しても経済を成長させるコトを選ぶのか、人類が将来も生きてゆけるようなサステナビリティーを選ぶのか、という選択である。実は、この「選択」こそが、「全体最適」なのだ。

民主的に、構成員全員の意見を聞いたのでは、この選択はできない。多数決の論理では、利害関係者が一番大きい「利権」を選んで終わることしかできないからだ。今の日本を悪くした、官僚主導の利権政治の裏を、地元への利益誘導により、それを期待する多数の地元民から、民主的な選挙で多数を得て選ばれた「族議員」達が支えていたことを忘れてはならない。民主的なプロセスでできるのは、みんなにちょっとづつ利権を分け与える「部分最適」だけである。

「部分最適」は、誰にでもわかる。目標があって、それを実現するためにどうやればいいか、一番合理的で手早い道を発見し、実施すればいい。課題達成のための戦術論である。しかし、全体最適は戦術ではない。「何をとって、何を捨てるか」という、戦略的判断が伴う問題である。算数のドリルのように、一意に答えがあるワケではない。そもそも、正解がありえない。いくら勉強しても、秀才では手に負えない問題だ。

だからこそ、官僚は「部分最適」が得意でも、「全体最適」が苦手なのだ。正解がない以上、可能性としてはあらゆる選択が有り得る。その中から、利害関係者に対して納得性が高く、かつ、得られる利得も最大となるような道を選ぶ。あるいは「その道が、ベストな道」だと、コンセンサスを作ることができる。これは演繹的な判断ではない。カリスマ性を持ったリーダーの「決断」なのだ。


(09/11/20)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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