振興政策





ハコモノ行政がはびこる理由の一つとして、いくつ建てたか、どれだけの大きさの設備を作ったかと、単純な「かさ」で定量的に成果が捉えやすい点があげられる。結果を評価して、自画自賛しやすいのだ。もとより、受益者は眼中にはない。自分達の仕事のアリバイが作りやすいかどうかだけが、官僚のモチベーションとなっている。そもそも、ハコモノだけ作っても何も意味はないし、地域に貢献するワケでもない。逆に維持費が発生して、その後、長期にわたって地方公共団体の財政を苦しめる結果になる。

本当に、住民のためになり、地域の活性化につながる「ソフト的」な政策は、成果を定量的に捉えにくいし、予算だけ決めてぶん投げればいいというワケにはいかない。商業イベントがそうであるように、成果が出るかどうかは、極めて「プロデューサーに属人化」した事業となる。その無責任体質ゆえ、匿名性、属肩書性が重要になる官僚組織では、こなすことができないたぐいの仕事である。

また、こういう施策は、ビジネスでいえば「BtoC」的になものである。直接、受益者と対峙する業務フローとなる。これでは、鞘を取るスキームが作れない。一括して金がどこかに流れる「BtoB」構造の中だからこそ、サヤ取りで「埋蔵金」をつくることができる。これでは、利権構造も作れないし、天下り先も作れない。官僚が仕事を行う最大のモチベーションである、利権と天下りが作れないとなっては、その仕事を行う意味がなくなってしまう。

かくして、官が行う限り、「ハコモノに、デカい金額を丸投げする」モデル以外あり得ないことになる。それは、公共事業で建設工事を行う業務以外でも、まったく同じ構造である。「事業仕分け」が話題となっているが、各事業の必要性を云々する以前に、その事業が「ハコモノ行政」そのものの、天下り資金を含む「丸投げ」になっているところが問題なのだ。事業そのものを吟味することと、「丸投げ」のスキームを吟味することは、根本的に異なる。そして、断罪すべきは「丸投げ」のほうなのだ。

さて、科学技術行政である。これも、まったく同じことだ。科学技術振興は重要だが、それを国家予算丸抱えで、かつ官僚主導でやらなくてはいけない理由はどこにもない。それを結びつけてゴマかそうというのが、官僚のロジックなのだ。官僚にまかせれば、そのサジ加減が利権化しやすく、その予算に絡んで天下り先をつくりやすいところに、重点的に金が使われるのは明白である。その時点では、まだ使いみちは「総論」なので、批判しようがない。

どうせ総論なら、バルクの金額だけ決めて、実際の配分先は「官」ではなく、「学」というか、実際に研究開発をやるヒトたちに任せるやり方もある。中身には、官僚は一切コミットしない、という方法である。ヨーロッパの文化振興政策とかは、中央集権的な予算の立て方だが、実際の運用はこういうやり方がとられることが多い。これなら、振興予算のかなりの部分が、天下り利権を確保するために使われる問題は回避できる。

しかし、官僚の恣意性を減らす意味では効果があるだろうか、大きい金がまとまって流れる以上、それを欲しい側が、利権にありつこうと、「官」に秋波を送るコトになるコトは充分考えられる。談合や汚職に見られるように、許認可利権構造は、官の側だけでなく、それを欲しがる民の側ももたれあいの同罪であることを忘れてはならない。これを防ぐには、テーマも民で決めるだけでなく、金の流れも民の中だけで完結するモノでなくてはならない。

それなら、企業や教育機関などに対して、自ら研究開発に対して行った支出の額に応じて、その金額に見合うだけ、納税額から控除するなどといった、超大幅な減税をするほうがいい。一旦税金として集めて、それを分配するから、バラ撒き利権が発生する。これをヤメるには、元から絶たなくてはいけない。それだったら、後からバラ撒く金額に見合う分を、税金として集めないのが最も合理的である。

個のことは、個に任せるのが、一番合理的だ。集中管理が非効率的なのは、計画経済の社会主義国家が破綻したことからも明確である。「振興政策」一般に言えるコトだが、国がコミットするべきでない事業を、利権化して官がコミットしようとしたからこそ、問題が起ってしまったのだ。政府は、結果としてその領域が振興すればいいだけのことであり、直接その内容にタッチすべき理由はどこにもない。ここにおいても、おせっかい焼きの「大きな政府」は、百害あって一益なしなのだ。


(09/12/04)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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