欲の皮





このところ日本でも、業績不振から決算連動でボーナスがカットされ、住宅ローンが払えなくなるヒトが目立つようになった。そもそも米国の金融危機も、サブプライムローンの破綻がきっかけであったように、無理なローンを組んでいると、景気後退により返済計画が破綻するというのは、洋の東西を問わない問題である。そもそも、ローンというモノ自体、取らぬ狸を当てにしている以上、ある程度こういうリスクを伴わざるを得ない。

まあ、こういうヒトたちに責任を問おうとしても、「貸したほうが悪い」というに決まっている。しかし、どれだけ借りるかは、あくまで借りるほうの責任だ。同じレベルの年収でも、無理なローンを組まず、ここに至って破綻の危機に晒されていない人も多い。やはり、「あわよくば」という思いから、限度一杯のローンを組むほうに原因があるし、結局は自己責任の問題ということができる。

自分の「分」をわきまえていれば、そもそも無理はしない。右肩上がりの高度成長にのせられて、自分を見失ってしまったヒトが続出した。それがまた、見せ掛けの高度成長を促進したということもできる。かくして、無理な上昇志向が「常識」となり、みんながみんな、望めばより「上」の生活ができると勘違いした。だが、そういう「バブル」は永遠に続くものではない。

まさに相場観と同じである。相場が上がると思って、みんながみんな「買い」に走る限りにおいては、確かに相場は上がり続ける。だかこれは、自ら相場を買い支えているのと同じだ。資金が尽きたり、そこに参加している人々が、無理して買いに走るのに疲れたりすれば、たちまちその虚構性があらわになり、相場は暴落する。高値止まりしているほうが、異常な現象なのだ。

そもそも人間は弱いものだ。廻りがはしゃいでいる中で、一人冷静を保てるヒトは、それだけで立派な存在だ。多くの大衆には、所詮無理なはなし。というより、それができないからこそ、「大衆」の一員となってしまうのだ。こういうヒトは、きちんとしたヴィジョンを持っていれば、回避できるリスクに対してもも、目先の利害だけにとらわれて、どっぷりとハマってしまう。

クルマとか、購入費用がまかなえるというだけで、維持費まで考えずに無理して買ってしまう人など、その典型だろう。また、そもそも資産を持っていないヒトが、思わぬ大金を手にすると、アッサリと使い切ってしまうことも多い。もっとも、そういう「成金」的な行動様式のヒトが多いからこそ、「富裕層」向けのバブリーな商売が可能になっているという面も否定できないが。

童話の正直爺さんとウソつき爺さんではないが、欲に目がくらまない人間は、それだけで人格者である。だからこそ、そういう人間にならなくてはならないと、説話になるのだ。貰えるモノは何でも貰ってしまうヒトのほうが、世の中には多い。「持たざるヒト」は、「持てるヒト」をネタむ。欲の皮が突っ張っている。格安チケットで出張費を浮かす。社の経費でカードポイントを貯める。こういうコトをするヤツは、要は人間がセコいのだ。

だからこそ、聖人君子たりうるには、実より名誉を求めることが必要になる。その哲学を体系化したモノが、儒教である。世界でも「金儲けの天才」といわれている中国人が、金以上に「面子」を大事にするのは、中国が儒教精神の本場だからだ。庶民と君子は、育ちが違う。その違いこそ、金を取るか、名誉を取るかの違いなのだ。こういう時代だからこそ、喜んで名誉を取れる人間が必要なのだ。


(09/12/11)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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