抑止力





現状に満足し、現状を肯定し、変化を求めなくなった日本の「大衆」。あらゆるところで、彼ら、彼女らは「失うモノがない者の強さ」を発揮しまくっている。それはそれで、事実であって、いい悪いという問題ではない。そういう社会状況を好まない人もいるとは思うが、それはあくまでも好き嫌いの問題である。嫌いだからといって、事実を事実として受け入れならないのでは、問題解決など何一つ不可能である。変化は、現実を直視することによってのみはじまる。

かつて、社会全体に「上昇志向」があふれていた時代があった。それは、ベースが極めて貧しい社会だったからだ。高度成長を求め、それを実現した原動力は、「貧しさからの脱出」であったといえるだろう。喰うためには、命をつなぐためには、上昇することが何より前提となる。「上」を目指さなければ居場所がない状況であり、いわば社会全体が壮大な「椅子取りゲーム」をプレイしているような状況だったからだ。

ただ、それは社会全体の貧困性が根強く、みんなが上を目指して経済規模の拡大を図らなくては、幸せの分け前に預かれない状況だったからだ。本質的に、人々が心の底から「上昇志向」を持っている、ポジティブで性善説な人間だったワケではない。しかし、長く続いた高度成長により、人々が上昇志向を持ち、成長を求めるのが当たり前、という「常識」が支配するようになった。だが、それはあくまでも思い違いである。

尻に火がつく状況なら、なんとか火がつかないように、必死に逃げるだろう。人喰い虎に追われている状況なら、走り続けなければ命がないだけに、必死に逃げるだろう。同じように、貧困にとりつかれ食うや食わずの泥沼にハマらないために、人々は必死に努力しただけである。本質的に勤勉なわけでも、本質的に善意を持っているワケでもない。だからこそ、一旦「喰うに困らない」状況になったとき、そのスキームは根底から崩れることになる。

さて、「背に腹は変えられないから」という動機ではあっても、社会全体にそれなりに上昇志向があった時代においては、共通のルールとして、「見栄」があり「格好づけ」があった。廻りから、実態より少しでもハイレベルに見られることが、地獄に落とされる椅子取りゲームにおいては、それなりにアドバンテージになるとともに、相手に対するプレッシャーになる。だからこそ、見栄を張ったり、格好をつけたりすることは、当然のモチベーションであり、「いいこと」と認識された。

しかし、この社会的コンセンサスとしての「見栄」は、決して悪いことばかりだったわけではない。見栄を張るためには、表から見えるところを取り繕う必要がある。そのためには、より上級なヒトたちの意識や行動をチェックし、それをベンチマークすることで、自分達もそういう皆さんの「仲間」であることを装うことが求められた。これが、大衆の本性を顕わにしないための「抑止力」となったことは間違いない。

無産者から偏差値だけで成り上がった、高級官僚たち。80年代以降、その化けの皮がはがれて、人品卑しい輩が多いことが顕わになった。もとより、自分の利権しか考えない、ノブリス・オブリジェとは縁のない人たちである。この本性が、昭和初期から高度成長期までの間において露見することがなかったのは、この「上昇志向」のための「見栄」が大きく働いたためである。世のため、国のためというタテマエが重かった分、本当に世のため、国のためになることをやらなくては、見栄が張れなかった。

だが今や大多数の日本人は、現状に満足し、上昇志向を持っていない。当然、この「見栄」の抑止力も効果を発揮しなくなった。「李下に冠を正さず」ではなく、早く「李」を取ったもの勝ち。みんながそう思い出した社会において、秩序を取り戻すためには、全く別の抑止力をビルドインさせる必要がある。人々が持つ「現状への満足」をキープしつつ、その外側に秩序維持装置をどう構築するか。日本社会に活力をもたらす鍵は、実はここにあるのだ。


(09/12/25)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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