「カッコいい」にあこがれていた時代





かつて昭和時代には、「先端的で、高感度で、都会的」なトレンドリーダーを、ヴォリュームゾーンとしての大衆が追いかけるカタチで、流行やトレンドが広まっていった。この時代においては、人々は「下から目線」でモノをみており、トレンドリーダーに合わせて「背伸び」をして追いつこうという行動様式が基本となっていた。トレンドリーダーとは、「背伸び」のためのベンチマークであり、そのスタイルがリファレンスとなっていた。

こういうスタイルをとる限り、「流行」のアイテムには、中身の本質的差異がわかりにくくい反面、外見的な違いがハッキリして誰からも違いがわかるもの、すなわち記号性が高いモノであることが求められた。この時代においては、デザインや品質そのものより、高級ブランドの「マーク」がついているかどうかのほうが重視され、似ても似つかない商品に「マーク」だけつけたニセブランド商品が横行したことなどは、その典型的な例である。

ファッションに限らす、そういう「わかりやすい違い」が、「カッコよさ」としてもてはやされたし、「流行」の最先端とみなされていた。。1970年代頃においては、洋楽、洋画が「カッコいい」ものとされていたコトなどその典型だろう。確かにヒットしたコトは確かだが、多数派の人たちが、その音楽や映画そのものを理解し、味わった上で受け入れていたのではない。逆に、理解していないからこそ、「知ったかぶり」ができるところがよかったのだ。

難解でよくワカらないからこそ、「カッコいい記号」になるし、ちょっと知的な感じもする。それ自体を味わって、楽しいと思うワケではなくても、その「背伸び感」のための手段として、流行ってしまうわけだ。逆に、それに乗らないと、「ダサい」と切り捨てられる。一億総「ハダカの王様」である。中身の議論になってしまっては、どっちが面白いのか、どっちがダサいのが、マトモに「議論」になってしまう。こうならないからこそ、ヒットしたということもできる。

かつて、60年代末から80年代初頭までは、「今年のヒット色」というのが、アパレル業界のそれなりの権威あるところから発表され、事実、街は「その色」一色になった。デザインテイストの話だと、記号としてウマく捉えられないヒトもいるだろう。しかし、色なら誰でもわかる。みんなが「バスに乗り遅れるな」と思っているところに、バスが発車するぞ、と脅しをかけるようなもの。簡単にみんながノってくるワケである。

このような流行パターンのルーツは、やはりアメリカの大量消費社会に行き着くだろう。アメリカも、19世紀までは、決して「豊かな大国」ではなかった。フロンティアがある間は、国土の量的な拡大が、国家としての拡大を支えていた。19世紀半ばを過ぎ、西部も南西部も、フロンティアがなくなってはじめて、質的拡大、経済成長が求められるようになった。それとともに、豊かな大国への道を歩みだすようになる。

国家規模の大きさを活かした資金力で工業化をとげ、20世紀に入ってから、第一次世界大戦時に、ヨーロッパに代わり「世界の生産拠点」としての地位を築くと、一気に大国へとテイクオフした。アメリカがアメリカらしくなってきたのは、たかだかこの百何十年の話である。それとともに、大量消費に支えるための仕組みが花開く。その最たるモノが、ゴールデンエイジといえる1950年代における、アメリカ車のモデルチェンジだろう。

OHV-V8エンジンと頑強なフレームの組みあわせというシャシーは、すでに確立していた。それ以上の性能は、アメリカの大衆にはオーバースペックとみるや、クルマのモデルチェンジは、性能や機能の向上ではなく、誰にもわかりやすいデザインの変更に集中する。「タメにする」デザイン変更である。かくして、去年のデザインを陳腐化するためだけにマイナーチェンジが行われ、その行き着く先が巨大なテールフィンだった。

差別化のための差別化、記号化のための記号化。そこにあるのは、誰にでもわかる「踏み絵」を提供し、誰もが容易に「カッコいい」か「かっこ悪い」かを判別できるシステムである。ハナから質的評価が出来ないヒトたちでも、「見栄」をはるためのベンチマーキングさえすれば、「時代にフィットしている」ことができ、「時代遅れ」の「カッコ悪い」モノ、あるいはそれを気付かずにいるヒトたちと峻別できる。

そもそも、「カッコいい」とか「かっこ悪い」というコトバは、今では死語になっているが、それが大手を振って通用した時代は、まさに、そういう皮相的な記号だけで、価値が峻別された時代だったのだ。先端的で、高感度で、都会的なリッチな生活者。確かに、そういうヒトたちは、今でも存在するし、そのヴォリュームはそれなりに無視できないことも確かだ。だが、彼ら、彼女らが、生活者全体をリードする時代は終わった。

圧倒的なヴォリュームゾーンは、今の自分を肯定し、そのまったりとした生活の中に安住したいヒトたちなのだ。しかし、彼ら、彼女らが、消費しないわけではない。実は、けっこう積極的な消費支出をしているコトも事実だ。ただそれが、「かつての皮相的な記号」だけで踊る消費ではなくなったということなのだ。そう、売れない時代、ヒットが出ない時代なのではなく、20世紀的な大衆消費社会の手法が使えなくなったというだけなのだ。


(10/01/08)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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