実需と虚需





金融危機以降、「景気が悪い」というのがすっかり枕詞になっている。では、なんで景気が悪いと思うのかと問えば、「モノが売れない」「実入りが少ない」という答えが帰ってくる。では、モノが飛ぶように売れて、実入りが多ければ、景気がいいのかと考えると、そう簡単な話ではないことに気付く。そこで想定される経済状況は、「バブル」ではあっても、単純に景気がいいワケではない。

もっとはっきり言えば、金を儲けた成金がいっぱいいて、普段持ち慣れない大金をつかんだ分、豪勢に使いまくること、すなわち「金をもてあまして贅沢をする」ことが、果たして「景気がいい」ことなのか、ということになる。確かに、こういう人々の金回りがよくなると、高級輸入車や高級ファッションブランド、高級ブランド時計などは目に見えて売れるようになる。しかし、その需要は実需ではない。虚需なのだ。

よく見ると、そういう高級ブランド品でも、実需で売れている品物と、虚需で売れる品物とがある。トップオブザラインと、ラインナップの中では比較的低価格な商品とに、虚需が多い。逆に、ミドルクラスの商品は相対的に実需が多い。理由は単純である、見栄を張りたいから贅沢をする人にとっては、手に届くギリギリの贅沢か、考えられる最高の贅沢か、どちらかしか選択がないからだ。

高級輸入車で考えると、この傾向はよくわかる。トップエンドのSクラスや7シリーズは、景気がよくて大幅に利益が出た中小企業のオーナーが、法人名義で購入するニーズが多い一方、ボトムオブザラインのCクラスや3シリーズは、株で小銭をつかんだ個人投資家など、懐の具合がよくなった個人が、国産高級車から乗り換えて購入するニーズが多い。これらのニーズは、景気の影響を受ける、虚需である。

これに対して、Eクラスや5シリーズは、小銭で買うにはちょっと高いし、見栄を張るにはちょっと押し出しが弱い。その分、クルマ好きで資産があるヒトが、マイペースで買う比率が高い。それなりにベースとなる実需がある。もちろんトップエンドにも、ボトムオブザラインにも実需はあるのだが、虚需のヴォリューム感の前に、相対的な存在感が薄くなっている。

こう考えてゆくと、すでにある程度の経済力を持つ先進国においては、さらなる成長とは、虚需をアテにしているモノであることがわかる。もちろん、マーケットにおいてモノを購入する目的は、買う人の自由なのだから、虚需が悪いとは言わない。悪いのは、それが虚需であることに気付かずに、虚需を前提とし、虚需をあてにした企業経営を行い、や社会政策を立案することである。

高度な経済力を持つ大衆消費社会とは、マスレベルの虚需を前提に成り立っていた。レベルはともあれ、実需以上の消費をサセることで、経済拡大の自転車操業を行うことが大前提になっていた。ローンやクレジットと同じで、それが将来の収入により補填されるのであれば、それなりに廻ってくれる。しかし、将来の収入は、決して保証されたものではない。それが続かなくなれば、まさにサブプライムローンの破綻のように、ビジネスモデルが崩壊してしまう。

何もモノがない貧しい社会が、モノが豊かな社会になってゆく「高度成長期」においては、確かに成長は実需に支えられている。必要だから買うし、その消費が循環して雇用を生み出し、経済を牽引する。しかし、それは普及率がサチるまでの話だ。モノの普及率が漸近線に限りなく近づき、安定成長に移行してからの社会においては、もし急激な経済成長があるとするならば、それは結局虚需に支えられていることになる。

ここは一つ、経済も脱メタボで、ふやけた贅肉を取り去って考えてみよう。実需レベルで、キチンと破綻なく廻っているならば、成長がなくても、健全な経済、健全な社会ではないか。贅沢を追わず、虚需をアテにしない社会。それは、結果的に極めてエコロジカルでサステナブルでもある。今に満足すれば、成長などいらない。それは、現状をポジティブに見つめ、高望みしないという、心の持ち様一つにかかっている。そして、それは、江戸時代までの日本人が、一番得意としていた生きかたではないか。


(10/01/08)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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