多神教と一神教





昨今のような世知辛い世の中になると、人々の関係がギスギスしてくる。差別でも何でもそうだが、対立というのは「貧すれば鈍する」ところから生まれる。余裕がなくなると、相手を許す心のゆとりがなくなるのだ。まさに、金持ち喧嘩せず。余裕さえあれば許せることも、余裕がないとシリアスな揉め事になる。差別やイジメは絶えなくても、強い立場の側が、弱い立場の者をぶっ殺す(キれて逆の殺人というのはある)ことが起こらないのはそのためだ。

これは、日本人の両面性である。本来的に日本人の精神性は「八百万の神」であり、多種多様な存在を鷹揚に許し合うところに特徴がある。とはいっても、余裕がなくなると背に腹は変えられなくなり、相手を許せなくなったり、相手を出し抜こうとしたりし始める。そういう意味では、原理主義的に相手を許せないということではなく、個別の問題で相手に負けられないということでしかない。ところが、世界的に見ればそうでないという人たちも多い。

アブラハム宗教と呼ばれる、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、神の言葉をまとめた聖典を重視する、中東起源の一神教である。彼の地で一神教が生まれ、信心されたのは、それなりに理由がある。それは、なにより環境の厳しく、生きていくことが極めて大変な地域だったからだ。。みんなが、多様性を維持したまま、共存して生き残れる余裕がないのだ。生きてゆくためには、一つにまとまることが何より必要だ。

このため、唯一絶対で排他的な教義の元にまとまることが求められた。その結果、これらの宗教の間では、排他的になって宗教戦争や差別が生み出されるだけでなく、同じ聖典を信じる人同士であっても、宗派が異なることにより、熾烈な争いや戦いが起こることになった。それもまた、生き残るためには「椅子取りゲーム」で勝ち残らなくてはならない、という環境がもたらした影響を色濃く見ることができる。ある意味、かつての過激派の内ゲバのようなものである。

そう考えると、前からある宗教ほど、本質的に「原理主義」的で「排他主義」的である一方、後から出てきた宗教ほど、前の教義を内包しつつ、より包括的かつ俯瞰的な視点を持つという構造があることがわかる。歴史的に、ユダヤ人が排斥され、差別されてきた理由はそこにある。砂漠の商人の宗教で、異教徒に対してある意味共存しうる構造を持っていたイスラム世界が、「十字軍」の侵攻以降、キリスト教世界と対立関係になったことも然りである。

また、これらの宗教の特徴として、「現世=苦、来世=楽」という基本認識がある。これもやはり、生きてゆくことが辛い環境の中で、いかにその苦難に耐え、日々の暮らしを続けてゆくかという「目的性」が反映したものと考えられる。辛く苦しい生活は神の与えた試練であり、それに耐えて生き抜くことで、来世での幸せが約束される。こうでも考えなくては耐えられないぐらい、生きてゆくことが大変な環境だったのだ。

それに対し、基本的に生産性が高く、「喰うに困らない」環境で暮す人々の間では、極めて現世御利益志向の宗教が生まれることになる。「自らの修行」というストイシズム的な傾向を持っていた仏教(小乗仏教)の教義が、中国において現状肯定的な大乗仏教に変化したことなどは、その典型だろう。キリスト教の「予定説」と、阿弥陀信仰の「他力本願」とは、ある意味似たところがあるが、現世での努力の方向が、禁欲的か、イケイケ的かというところが大きく違うのは、その典型だろう。

そういう意味では、日本人の精神風土は、日本の自然環境を反映して、元来、極めて現世指向であるとともに、多様性を容認するものである。自分には、自分の神様がついているのだから、それを大事に崇拝している限り、必ず救われる。他人には、他人の神様がついていて、同じように救われる。それぞれ、マイウェイで救われる限り、それでいいじゃないか。この発想が、本来の日本的な考えかたである。これは、大変寛容な発想だ。

これを追求していけば、西欧の近代産業社会とは違った意味での、「自立した個」の確立も可能だ。唯一神との絶対的関係における「個」の確立ではなく、それぞれの神、俗な言い方をすれば「ご先祖さま」との相対的関係における「個」の確立。それは、「それぞれの神」の存在を、互いに認め合うことで成立する。実は、このような寛容性こそ、これからの人類社会が一番必要としているものではないだろうか。


(10/01/22)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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