品格のウソ





品格というコトバをタイトルに使った新書がヒットして以来、この数年ある種の「品格」ブームになっている。しかしその中で根本的に勘違いしている人が多いのだが、品格とは、ある規範があって、それにあわせるものではない。そもそも品格の基準にしても、絶対的なモノがあるワケではなく、国や民族によって、そのリファレンスは異なるし、時代によっても異なってくるものなのだ。なにか付け刃的に「勉強」すれば、たちどころに身につくような代物ではない。

人品のあるヒトの立ち居振る舞いが、結果として「品格がある」ワケであり、小笠原流の礼儀作法のような、マニュアル化可能なものではない。であるにもかかわらず、それが形式主義、様式美のほうに寄ってくるのは、「品格」の名に隠された目的があるからだ。それは十中八九、既得権を擁護し、利権構造を温存するためのものである。これをカモフラージュするために、「品格」というコトバを隠れ蓑にしているに過ぎない。

結局は「品位」自体が方便であり、見るヒトが見れば「袈裟の間から鎧が見える」ことになる。そもそも、声高に「品位」とかいう人に限って、実に品がない人ばかりではないか。誰でも、そこに何か胡散臭いものを感じているはずだ。品がない人同士が、どっちが品があるかを争っている状態。まさに、目クソ鼻クソであるにもかかわらず、自分のほうがエラいんだと主張したいからこそ、「品位」の議論にもちこんでいるのだ。

これは、保守と守旧派の違いにもいえる。保守とは、哲学があるヒトである。守るべきは哲学である。金科玉条のごとく、教条的に変化を認めないワケではない。真の保守なら、世の中のほうが変わって自分の哲学とぶつかるようになれば、そのズレを修正すべく、率先して変化を求める。ただ、昔はよかったと主張したり、変化を好まないのとは違う。昔のスキームのほうが、自分の哲学と整合性がいいからこそ、そちらに軍配を上げるのだ。

これに対し守旧派は、現状の利権を手放したくないからこそ、現状の構造を肯定し、温存しようとする。ここには哲学も思想もない。あるのは金の臭いだけ。だからこそ形式が大事なのであり、その形式を変えたくないのだ。日本の保守政治家といわれた人の多くは、けっして思想や哲学を持った人ではなく、政官利権を死守しようとする族議員であった。彼らは守旧派でこそあれ、決して保守ではない。これを、数の論理から十把一絡げに扱った、かつての自民党政治に問題がある。

そういう意味では、自民党はけっして保守党ではなかった。思想的にも、戦前の「革新官僚」の流れから、かなり社会主義的な人も多く混じっていたし、実際にとった政策も、自由主義的というよりは、社会主義的なモノが多かった。それらの政策は、官僚主導という面も強いが、官僚と利権関係で表裏一体となった守旧派の族議員が、それを支えていた。その族議員と呼ばれるヒトたちも、よくよく見れば、なんとも品のないセンセイ方ばかりであった。結局そうなのだ。品性の高いひとは、そもそも「品格」などと語らない。

そんな「品格」なら、ないほうが余程いい。ウソをウソで塗り固めるための手段なら、そういうギミックを一切廃して、全部ホンネを正直に語るようにしたほうが、社会としての品位は余程高くなる。品性のない人は、誰が見ても品性がないことがあらわになるものの、ない品性をかくして偉そうにうそぶく連中よりは、「利権が欲しいよ」と正直に叫ぶ連中のほうが、まだかわいげがある。それが通るかどうかはさておき、少なくとも「自分に正直でウソがない」という点については、それなりに好感が持てる。

そもそも、本当に上品な人々からすれば、得意げにエラそうなことをいう人自体が、皆、どんぐりの背比べである。上品な人は、自分を主張しないし、他人を批評しない。廻りに何一つ依存せず、迷惑もかけずに、自分の道を貫けるだけの内実をもっているからこそ、上品なのである。雑魚がバカな争いをやっていても、そこに巻き込まれることも、そこにちょっかいを出すこともなく、マイペースのまま、立体交差のごとくすり抜けてしまう。本当の品格というのは、こういう「格の違い」のことなのだ。


(10/02/19)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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