日本の進む道





ミュージシャンズ・ミュージシャンではないが、自身はミリオンセラーなどとは縁遠いモノの、他のソングライターからパクりのネタとして「引用」されまくるタイプのアーティストがいる。イノベーターとして、パクられまくるタイプと、いけそうなネタがあると、パクりまくるタイプ。ヒトの立ち位置には、どうも二つのタイプがあるらしい。これはビジネスの世界でも同じだ。

ビジネスで言えば、「モノ作り」の人々のネタになるものをつくること。コピー商品、パクり商品の元になるモノを創ること。数は出なくていいが、よく言えばオマージュというかリスペクトを集めるモノを創りだすことが、「モノ創り」である。「モノ創り」とは、ネタにされるモノを作る、パクられるモノを作ることであり、日本のメーカーの多くが今も考えるように、「よいモノを安く作る」こととは根本的に違う。

日本もかつては、「モノ作り」の国であった。そんな「モノ作り」が絶好調だった、高度成長期の60年代、70年代は、パクりの全盛、ネタのないモノはない時代でもあった。このところ中国の「パクり・カー」が話題だが、かつては日本でも、メルセデス・ベンツやジャギュア、はたまた当時は人気があったビッグパワーのアメ車など、海外の高級車そっくりのデザインのクルマが数多くあった。また、それが当然のように受け入れられていた。

ある意味、この手の「ものマネ商品」は、子供の麻疹や水疱瘡のようなもので、テイクオフした新興工業国が、自分達ならではの生産スタイルを確立するためのに、一度は通るプロセスともいえる。その分、先進国のアイデンティティーは、ネタにされるような、新しいモノを創りだす力を持っていることに求められるようになる。その鍵は、クリエイティビティーにある。先進国か、新興国かの違いは、クリエイティビティーにこそ求められなくてはならない。

真の意味で付加価値を生み出すものは、採算を度外視した、クリエイティブな欲求である。 技術だけでは、付加価値は生み出せない。ところが、サラリーマンではクリエイティブになれない。それは、官僚にクリエイティビティーがないのと同じ理由だ。宮仕え、組織人というのは、クリエイティビティーをは最も縁遠いところにある人種だ。百歩譲って、個人レベルではそれなりの才能を持っている人はいるかもしれない。

しかし、そういう能力を必要とされない、あるいは、そういう能力がじゃまになるのが、官僚に代表される組織人なのだ。三島由紀夫氏は、大学卒業後高級官僚となったが、彼の持っている「才能」は、官僚社会では全く必要とされないばかりか、かえって出世の妨げになることを自覚し、さっさと霞ヶ関から去ってしまったのは有名な話だ。これなどは、官僚や組織人の本質をよくあらわしたエピソードだろう。

生活のためにやっている仕事からでは、商品やサービスの受け手は、生活臭しか感じられない。もちろん、機能やスペックという面では、すばらしいモノを提供できるだろう。だがそれだけでは、受け手に喜びや満足感を与えることはできない。夢が見れない人は、夢を語ることはできないし、他人に夢を与えることもできない。これは、エンタテイメント関係のソフト・コンテンツ産業では、ある種常識といえる。

テーマパークとくくられる中でも、ディズニーリゾートはレピーターを何度も楽しませているのに対し、ハウステンボスのように経営破綻するところもある。そもそも、運営側が夢を持っているのかどうか。役人色の濃い第三セクターは、最も夢から遠い世界だ。そんなところが運営する「テーマパーク」では、夢があるワケがないし、お客さまも夢を感じることが出来ないだろう。プロモーション次第では、まかり間違って、最初の一回だけは動員が図れるかもしれないが、それで終わり。決してレピーターにはならない。

商品やサービスも同じだ。どんなに機能やスペックが優れた製品やサービスでも、そこに夢やロマンが思い込めなくては、付加価値は生まれない。結局は、性能とコストを対比させたコストパフォーマンスだけが、選択の基準となる、となれば、残された道は、価格破壊のチキンレースしかない。これが、ただひたすら「いいモノを安く」しか考えてこなかった日本の製造業の多くが、今追い込まれている状況だ。安く数を作るのは、新興国に任せるべきなのだ。

「モノ作り」は技術の問題なので、教育と努力でなんとかなるモノだが、「モノ創り」はセンスの問題なので、生まれながらの才能が極めてモノを言う。日本の社会、特に大衆社会は、農村共同体的な平等意識が非常に強い。特に、現在人口のヴォリュームゾーンを占める、団塊世代、団塊Jr.世代は、こういう「横並び意識」「集団依存意識」が極めて強い。

その結果、西欧社会のような「才能のある人間を素直に認め、尊重する」意識が欠如するだけでなく、そういう「差」自体を認めようとしない、あるいは「差はよくないこと」と否定するような風潮が生まれている。問題はここなのだ。もともと才能を持っているだけではなく、それを育み伸ばすような、生まれ、育ちをしなくては、クリエイティブな人間は出てこない。

日本という国は、「モノ作り」を新興国に譲っても、「モノ創り」の世界で生きてゆけるだけの蓄積がある。というより、そういう円熟したステージに移行しなくてはいけないレベルにまで、経済・社会が成熟している。しかし、それを支えるべき才能のある人間に、世の中を託そうというマインドが、社会的に共有されていない。この「需給の不均衡」が、この十年・二十年の日本の閉塞感の原因である。

最大のボトルネックは、まさに内なる敵なのだ。「横並び意識の強い大衆」が、既得権に安住することを第一に考え、進むべき道を誤らせるリスクが、日本の未来を考える上で、最も大きな障害となる。「できない」のではなく、「やらない」「やらせない」ことこそが、日本という国を滅ぼしてしまうリスクなのだ。自分がやらないでおいて、なんとかヒトに文句を言おうとしている。今の日本の状況は、たとえてみればこういうことなのだ。


(10/02/26)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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