成長の終焉





近代産業社会においては、更なる成長、利益の拡大は、なにごとにも最優先するテーゼであり、全てのモチベーションの源泉であった。その視点からは、人口減、すなわちマーケットの縮小をもたらす「少子高齢化」は、何よりも忌むべき悪である。しかし、今や近代産業社会から21世紀型の情報社会へ、社会のパラダイム・シフトが現実のものとなった。その意味では、もはや近代産業社会的な価値観にとらわれる必要はない。

いや、もっと積極的に、西欧近代産業社会的なパラダイムからの脱却が求められている。こういう視点からは、社会の構造が大きく変わる少子高齢化は、実は大きなチャンスである。それだけでなく、少子高齢化でもたらされる人口減少社会における縮小均衡は、新しいパラダイムから見て、ポジティブなメリットをもたらす。成長に変わる、情報社会的なパラダイムは、サステナビリティー、ダイバーシティー、セルフヘルプである。

実はこの三点は、明治以前の日本が強みとしていた軸である。近代化とともに忘れ去られ、否定されてしまったものの、日本人の「血」の中に密かに受け継がれている伝統でもある。すなわち、少子高齢化を逆手に取った日本の伝統ヘの回帰は、一気に日本をポスト近代の旗手とし、21世紀型社会のリーダーとしての脚光を浴びせてくれるものなのだ。このメリットを活かさない手はない。そのための方策を考えてみよう。

まず、サステナビリティー。成長より持続性を重視するのは、日本の組織の基本となっている「家」型ガバナンスの特徴である。天皇制においては、現在の天皇陛下も、万世一系の天皇家のプレゼンスの前には、その維持・継続を担う、いわば襷を任せられた駅伝ランナーのようなものである。それは日本においては、権威性、正当性において、なにより継続性・持続性が重視されるからだ。

企業も、西欧的な擬似人格としての「法人」ではなく、個人の上に存在するより大きな存在としての「家」型の組織である。「家」システムにおいては、家自体を拡大することが否定されるわけではないが、拡大自体は目的ではない。「家」の目的としては、なにより継続性が重視される。家が途切れることは、何よりも悪であり、不名誉ある。家の当主は、全身全霊をかけて、家の継続性を守ることを第一に考える。

企業にも、技術にも、ブランドにも寿命がある。だからこそ、継続性のためにはイノベーションが不可欠なのだ。真のイノベーションは、決して成長のためではない。イノベーションを、短期的利益の極大化にしか使わなかったのが、近代産業社会的な経営である。サステナビリティーを考えた経営になれば、なにより企業活動自体が文化を生み、人々の心を豊かにするものとなるのはこのためである。

ダイバーシティーも、今後重要になる概念である。それは日本では、八百万の神として、一神教とは違う、多様性を許すメンタリティーとして受け継がれてきた。あらゆるものに、「神」が存在している。その考えかたは、あらゆるものに対し多様性を認め、共存を図るコトに繋がる。神が宿っているからこそ、自分とは違っていても、存在自体を抹殺することにはならない。

ここが、キリスト教に代表される一神教的なメンタリティーと異なる点だ。それが差別を生み出したという意味では問題があるが、「村八分」という考えかたも特徴的だ。決して「異端者は消せ」ではない。二分は存在を認めて共存しているのだ。共同体のアウトサイダーも、存在自体を否定するワケではなく、より大きなルールの中で共存を図っていた。これも、これからの社会を考えてゆく上では重要な概念だ。

邪魔者は消す「一神教」的な経営が生み出すものは、「winner takes all」という勝者への集中である。そして、価値判断の基準には、短期的利益額の極大化指向がある。いわば、明日の100円より、今日の10円。割戻し利率を極めて高く見た現在価値法だ。しかし、勝者への集中と短期的利益極大化が組み合わさるとどうなるか。それは「取れるだけ取ってオシマイ」というマーケットの焼畑農業化である。

取れるだけ取って、次がなくなったら、そこでゲームオーバー。そのマーケット捨てて、次は別のマーケットを狙う。短期的には効率的だし、だからこそ利益が出るのだが、長期的に見れば最適化ではない。それより競合がいたほうが、結果的にはイノベーションが促進され、新たな可能性を生む。同様に、全てが均質化し、モノカルチャ経営になってしまった企業は、環境変化に対応できない。人類に未来をもたらすのは、決して成長ではないのだ。

もう一つ重要なのが、セルフヘルプの精神である。江戸時代には、北前船に代表されるように、すでに全国的な商品市場を前提とした商品流通があり、商品の生産も、酒や醤油のように、都市消費市場向けの大規模な生産が行なわれていた。とはいえ、全国市場より、藩単位の市場のほうが流通量は多く、それよりも村単位、共同体単位と、より下位の経済圏になればなるほど、そこで流通・消費されるアイテムは多くなる。

結果として生活必需品の多くは、特に農村部においては、自給自足的な生産が行なわれていた。市場規模としては、商品経済化しマーケットで流通するものより多かった。このような自己生産・自己消費は、GDP的にはカウントされない。その社会の「経済力」としては、認識されないのだ。この部分が大きくなると、見た目の経済力より、ずっと豊かな生活を行なうことができる。今後の経済の活性化のためには、この部分を拡大することが重要なのだ。

セルフヘルプが実現すると、生産と消費が近くなる。生産と消費が近いということは、リスクが少なく、無駄がないことを意味する。それはとりもなおさず、エコロジカルな経済生態系を実現することになる。多くの手数をかけて、見せ掛けの経済規模を拡大するよりも、最小の手数で、効率的にこなす。自律的かつ循環的なサイクルが作れればこそ、最適化が可能になるのだ。

西欧近代的価値観が全世界を覆っていた、産業革命以降の産業社会の時代。日本もまた、その渦中に置かれ、そこにオプティマイズせざるを得なかった。しかし、それは本来の日本の姿ではない。150年程度の寄り道。「和を以て貴し」となす国が、内乱に明け暮れていた戦国時代も、150年程度で安定的な江戸時代に復帰した。150年の寄り道は、決して戻れない時間ではない。今こそ、本来の日本の姿を取り戻すべき時なのだ。


(10/03/12)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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