脱・刷り込み





世の中の経済動向や社会構造の変化のスピードに比して、個々人の中の価値観の評価基準の変化は、それほどヴィヴィッドなものではない。というより、アタマでは世の中の変化に気がついていても、カラダがついていかないというのが、ある種人間の性である。ヒトが犯す失敗の多くは、ここから生まれているといってもいいだろう。こういう性癖があるからこそ、クールに事実を把握することができないのだ。

このため、変化が急激で目立つ時期には、古い評価基準で、新しい環境を評価することになる。たとえば経済の高度成長期においては、まだ貧しい頃の基準で、躍進する経済力や、豊かになった自分達の生活指標を評価することになる。1960年代の日本や、現代の中国などがその典型である。なにごとも、見るもの聞くもの、体験するもの、全てが驚きの連続で輝いて見える。おいおい、実態よりも高め・ポジティブに評価することになる。

毎食毎食、腹いっぱい喰えれば、おいしいかどうか以前に、ひもじくないというだけで、幸せになってしまう。それは、デフォルトが「飢えている」状態にあったからだ。この状態でうれしくなってしまうようでは、グルメになるまでには、まだ遠い道が待っている。マイカーやマイホームなど、かつては夢見るだけの憧れだったモノが、手に入るようになっただけで、その内実を問うことなく、リッチになった気がしてしまう。

これはまた、逆も真なりである。一方景気の下降期、所得の減退期においては、かつて景気の絶頂を極めた頃の基準をもとに現実を評価する。したがって「この期におよんで」もまだ、高望みをすることになる。リストラされ仕事がないというのに、求人の待遇を選り好みし、自ら就職のチャンスを潰してしまうヒトなど、この典型だろう。ギャンブルに熱中して、負けが込むと、アツくなって冷静な判断ができなくなり、どんどんバッドサイクルに入ってゆく依存症のようなものだ。

三丁目の夕日ではないが、テレビが家に来た日を覚えている、テレビがものめずらしかった世代では、テレビ受像機もテレビ番組から得られる情報も、極めて貴重でありがたいものと映る。それに対して、生まれたとき、物心ついたときからテレビがあった世代では、テレビはあってアタりまえのコモディティーであり、特に御利益や霊験があるワケではない。部屋の中から「外」に向かって開いた「窓」の一つでしかない。

こういう現象は、世の中の変化が速かった20世紀後半の日本では、世代ごとにいろいろなアイテムで見られる。電話を世帯財としてみるか、個人財としてみるかは、昭和30年生まれあたりが境目となっている。パソコンやインターネットをありがたがるかは、昭和50年生まれ。携帯に神通力を感じるのは、昭和60年生まれ。いずれにしろ、刷り込みがあると、必要以上に御利益があるものと思い、うやうやしく扱ってしまい、変化についていくのが難しくなる。

ぼくらの世代が小さい子供だった昭和30年代は、スパゲッティーといえばほとんど「ナポリタン」で、「ミートソース」が高級な感じさえしたような時代だった。それが1970年代に入ると、塩味の、いかにもイタリアンなレシピが登場する。まだまだ、アーリオ・オーリオと呼ぶには程遠い味付けだったが、その時代の人間にとっては、大きなカルチャーショックとして迎え入れられた。物心ついてからの「はじめての出会い」とは、そのくらいインパクトがあるものなのだ。

実は、刷り込みの濃さには個人差がある。これは、今日の100円が明日のいくらと等価かという、割引率と密接な関係がある。リスクを好まないヒトは、たとえば明日の101円と等価というように割引率が低く、将来を見通してモノを考えることができる。リスク選好型のヒトは、たとえば明日の1000円と等価というように割引率が高く、通常の場合、圧倒的に「目先の御利益」を選ぶ。後者のタイプほど、現状のことしか考えないので、刷り込みから抜け出ることが難しくなるのだ。

刷り込みがない分、過去の経験のない世代は、比較的クールかつストレートに現実を受け入れられる。その分、リスクは少ない。若いヒトのほうが、変化に対応しやすいといわれるのは、この理由による。ゼロ金利、超低金利は、日本ではもはや20年続いている。構造的変化。マーケットのグローバル化、信用創造技術の進歩により、資金が希少資源ではなくなったからだ。その結果、資金あまりの状況となり、金利低下を生んでいる。

そういう意味では、リスクプレミアム以外、金利が上がる要素はない。しかし、定期預金やMMFに5%とか7%とかの利子がついた、かつての高金利時代を知っている人は、また預金等の金利が上がることを期待してしまう。そもそも金を借りる時はイザ知らず、預けるときに金利がつくことなど知らない世代が社会人になる時代だ。彼ら、彼女らなら、余計な期待をせず、淡々と現実を受け入れてることができる。かくして、ますますカルチャーギャップが拡大する。

価値観が多様化し、かつその変化もスバやい21世紀型の情報社会においては、刷り込みに捉われないことが、なによりチャンスを拡大するカギとなる。言うは易く、行なうは難いが、決してトレーニングできないコトではない。自分を相対化し、自分の意識の中の何が先入観や刷り込みなのか、他者や他世代と常に比較するコトができれば、カルチャーギャップに陥るリスクはかなり軽減するハズだ。もっとも、それ自体、誰にでもできることではないのだが。


(10/03/26)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる