自己責任と無責任





亀井大臣の「郵政民営化見直し」に代表されるように、このところ政界では、妙に復古調の風が吹いている。民主党が労働組合の支援を受けている以上、あまりいただけた話ではないが、ある意味復古的、守旧的になるのは仕方ないところかもしれない。しかし、利権のためなら、恥も外見も関係ないとばかりに、それに便乗したカタチで、利権構造の復活まで図ろうとしているのは、ちょっといただけない。

政・官においては、利権を守るためなら主義主張も関係ない、というヒトたちがほとんどなのが日本の現状である。こういうヒトたちにとっては、政権党がどこに行こうと関係なく、ひたすら与えられた枠内で、自分達の権益をどうはめ込んで行くコトしかアタマにない。これはこれでゆゆしき事態だし、正していかなくてはいけないことだが、これと連動して、もっと大きな問題が起こっている。

それは、「自己責任の否定」である。競争原理を否定し、自己責任を問題視する。小泉改革の問題点は、彼らが言うように「市場原理を重視した」ことではない。問題が生じたのは、小泉元首相のモチべーションが改革自体ではなく、「旧田中派的なるもの」の解体だったからだ。そういう意味では、改革の旗は手段に過ぎず、改革自体の達成は、おざなりになってしまうのも当然である。

昨今の復古調の議論に便乗して、こういう「自立・自己責任」を否定・排斥する論調が目立ってきているのだ。まあ、みんながみんな「自立・自己責任」を肯定し賛美する日本というのも気持ちが悪いし、マジョリティーではないからこそ、「自立・自己責任」が重要なんだ、と主張する意味もあるというものだが、こう大っぴらに自己責任」を否定するのも、余りの開き直りといわざるを得ない。

もともと、自己責任の意味は、「責任が取れるヒトなら、自分の責任が及ぶ範囲においては、何をやるか自分で判断してやっていい」ということである。そもそも、自分で責任を取る気がない人、責任の取りようがない人については、自己責任は成り立たない。そういう意味では、無責任なヒトたちが自己責任を語っても、最初から責任を取る気がないので、それは元々の無責任となんら変わらないものである。

官僚が、自己責任で何かをやるということがありえないことが、それを如実に示している。官の組織自体、責任の所在が曖昧にするためのものだし、ましてや官僚個人では、肩書に対するどんな責任も果たすことができない仕組みである。官の組織ではごくまれだが、警察署長のように責任範囲が明確なポジションもないではない。しかしこういうポジションでは、もみ消しや押し付けが横行するのは、事実が何よりも示しているところだ。

そう、「甘え・無責任」なヒトたちは、いまさら自己責任を否定したって何も変わらない。そういうヒトたちには、誰も自己責任を求めていないし、そもそも責任を取っていないのだからどうでもいい話ではないか。もし、責任を取らないことにうしろめたい気持ちがあって、自己責任論を否定するのなら、それはお門違いというもの。本当にやるべきは、「無責任で何が悪い」と開き直ることだ。

そもそも日本においては、江戸時代まで、庶民には無責任が許されてきた。というより、責任という言葉がなかったといったほうがいい。20世紀に入って大衆社会化が起こり、西欧流の民主主義が入ってきてはじめて、一般民衆に対しても、義務や責任というシバリが入ってきたのだ。これもまた、近代産業社会特有の現象である。別に、未来永劫、金科玉条のごとく捉われる必要などない。

大事なのは、自分達は甘えたい、無責任で行きたいと、主張することだ。無責任で悪いとは誰も言っていない。責任をとっているフリをして欲しくない、ということだ。最低限、「私は無責任に生きたい」といえばそれでいい。誰も責任など求めない。責任を取れるヒトと、取りたくないヒト。これが外見上区別できず、同じような権利を与えられて生活している状況さえ打破できれば、世の中はずっとよくなるし、ずっと楽になる。さあ、正直にカミングアウトしなさいな。


(10/04/02)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる