クリエイティブな心





かつて、アメリカの経営学者がソニーの強さを分析して、「日本の大手メーカーと比較して、経営トップが、揃って育ちがいい」点を特徴としてあげたことがある。新しい技術で新しい製品を生み出すことが、人類の文化のための貢献となる、とでもいうような、ある種の「ノブリス・オブリジェ」が、ソニーという会社を発展させる原動力になっているという。そういうカルチャーがあるからこそ、ユニークな商品を生み出し、グローバルブランドになったのだ。

これが生まれてくる源泉が、トップの育ちのよさだというのだ。おいしく儲けようとか、セコく稼ごうとか、こういう発想の経営をしている限り、企業活動から新しい文化が生まれるコトなどありえない。全く新しいアイディアを生み出し、その可能性を追求するには、多くのコストと時間がかかる。そこにあえて挑むのは、トップの発想の質が違う企業でなくてはできないことなのだ。単純に「金を儲ける」のではなく、もっと他のモチベーションが必要になる。

儲けたいのなら、今ヒットしている商品をパクった「コピー商法」のほうが、よほど効率的だし、そういう企業のほうが多い。もちろん、同等の機能・品質を持ったコピー製品を作るには、リバースエンジニアリングを行う技術力や、より安く大量に商品を生み出せる開発力、生産力がなくてはならないのはいうまでもない。しかし、その技術は、なんら差別化や付加価値を生み出すことには貢献していない。技術とは、それだけではいくらあっても、けっきょく価格競争にしかならないモノなのだ。

差別化・付加価値を生み出すものは、クリエイティブなアイディアをおいて他にない。そして現状を前提にしては、アイディアは生まれない。現実から逃避するわけではないが、浮世離れした発想ができないと、競争力があり、差別化につながるような、付加価値のあるアイディアにはならないのだ。いいアイディアは、採算を度外視しなくては出てこない。秀才が多い会社ではダメで、「何とかバカ」が多い会社でなくては、付加価値を生み出せないのだ。

そう考えてゆくと、実はクリエイティブなお坊ちゃま・お嬢ちゃまが多い組織というのは、新しいものを生み出す能力が高い。彼ら・彼女らは、ある面、純粋な意味で「趣味で仕事」をしている。生活費のために働いているのではなく、その仕事が面白いからこそ働いている。別に、給料がもらえなくても、その仕事をするだろう。生活費を稼ぐために仕事をしているような会社員では、セコくなる。利権に走って、楽して儲けようとする。これでは、いいアイディアは生まれない。

現在までに形式知化されている情報を組み合わせて生み出せるモノは、アイディアではない。それは、人間の知の成果ではない。そういう既存の情報の組合せであれば、コンピュータとネットワークの組合せのほうが、よほど得意だし、コスト的にも効率的だ。人間がやっても、コンピュータをぶん回しても、おなじ結果が出てくるものなら、どう転んでも機械のほうに軍配が上がる。機械のコストは時間とともに必ず逓減するだけでなく、スケールメリットも生まれるからだ。

過去においては、既存の知識を組み合わせたレベルのモノしか生み出せないヒトが多かったことも確かだし、そのレベルのモノでも商売になったことも事実だ。そして機械でもできることである以上、逆説的だが、最低限の能力を備えた人間なら、努力次第で何とでもできるものでもあった。秀才が評価されたのは、そういう勉強や努力でどうにかなるもので、まだまだビジネスが勝負できた時代だった証といえる。

ファインアートのアーティストの中には、リアルタイムでは売れなくても、後から歴史的作品を生み出した天才として評価されるヒトも多い。時代を才能が超越していた。アバンギャルドな先進性を持っているものほど、後付けではクリエイティブな評価は極めて高くなるが、同時代ではほとんどの人が理解できない。クリエイティビティーとは、そういう性質を持っているモノなのだ。時代を超越したクリエイティビティーは、すぐ金になったり、商売になったりしない。

だからこそ、生活に余裕がなくては生み出せないのだ。かつての日本は、一握りの豊かなヒトと、数多くの貧しいヒトによって構成されていた。しかし、そういう貴族的な時代のほうが、大衆的な時代より、よほど「文化」を生み出していたコトを思い出して欲しい。秀才や大衆には、文化は生み出せない。生活にも、心にも、あふれる余裕があるヒトだけが、時代を変えるようなクリエイティブな発想ができる。ここに「超えられない壁」があることを、人々はもう一度、心に深く念ずるべきなのだ。


(10/04/16)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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