情報民主主義





社会の情報化が進むとともに、ウワサ、口コミといったインフォーマルなコミュニケーションが、WOMなどと呼ばれ、特にインタラクティブメディアとの親和性が高いとして着目されるようになった。しかし、ウワサや口コミといったものは、最近になって新たに登場したものではない。この手の話題は、ある意味、人類の歴史とともにあるといってもいいくらい、長い歴史を持っている。情報通、ウワサ通と呼ばれるヒトたちは、社会の情報化に程遠かった昔から、それなりに存在した。

それは、インターネットも携帯もない時代でも、ウワサ話はそれなりの速さで社会の中に広まったことが、なによりもよく示している。モノの本によると、226事件が起こったとき、「クーデター発生」のウワサは、一切オフィシャルな報道がなされないにもかかわらず、当日の午前中には、東京都内に広がっていたという。ヒトの口と耳に、外から鍵は掛けられないだけでなく、面白いネタに対する興味や好奇心は、誰にも止められない。

軍政などの独裁政権が続き、報道管制が敷かれることの多い国では、そもそも人々はメディアを信じない。口コミで広まるウワサこそ、庶民にとっての「真実」を伝える情報源である。そういう時代を経た経験のある国では、公式のニュースより非公式の口コミの方を信じる、という行動様式が定着している。こうなると、ウワサのチャネルはどんどん発達し、驚くほどのスピードで、情報を伝達するようになる。

こういう情報意識がベースなっている国では、時としてインターネットによる情報流通が、口コミをパワーアップしたものとして、マスメディア以上に信頼され、極めて重要な役割を果たすことも多い。韓国におけるインターネットの普及においては、この「街場のメディア」としての機能が、大きく貢献したコトはよく知られている。60年代から70年代の軍事政権時代、マスメディアは、皆「御用機関」だったため、庶民は一切その報道を信じなくなっていたのだ。

日本でも、かつては同様のインフォーマルな情報ネットワークが、フェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションにより構築されていた。戦後でも、かなりの期間、このようなコミュニケーションが機能していたことが確認できる。たとえばぼくの経験でいえば、70年代初頭、ジョンレノンが渋谷に現れた事実は、2時間もすれば目黒・世田谷地区の高校にほぼ正確に伝わった。夕方ウラ取りをしに店を回ると、実際にそこにいたことが確認できた。

多分、途中に高校生の溜まり場だったロック喫茶等を経由し、私鉄路線沿いの高校の間で、バケツリレー的にウワサが伝わっていったモノと思われる。この流れは、PPP接続で電子メールが転送された、初期のインターネットそのものである。このように情報メディアが発達するから、情報通、ウワサ通が増えるワケではない。しかし、情報メディアの進歩により、そういう情報ネタに関する「異能の人々」が活躍する場が、飛躍的に拡大するのは確かだ。

人気芸人のギャグは、テレビでオンエアされると、たちまちのうちにyoutube等にアップロードされ、リアルタイムで見逃したヒトたちにも、楽しむチャンスが生まれる。しかし、youtubeにアップロードされても、ほとんど視聴されない映像の方が圧倒的に多い。大事なのは、youtubeのようなサービスや、ストリーミングといった技術ではなく、コンテンツそのもの、さらには、そのコンテンツの「面白さ」を生み出す人間の才能なのだ。

実は、インターネットというのは、大衆レベルでの人気や面白さに対して、極めて鋭敏に反応し、それを増幅させる性質を持っている。極めて「民主的」な仕組みだ。送り手については、シビアに才能を問われるが、受け手については、どんなヒトでも「ひとり一票」という平等性が担保される。だからインターネットは、大衆にアピールするような才能には、極めて親和性が高い。そういう才能の無い人には、極めてキビしい評価を下す。

かつて、送り手が「上から目線」のコンテンツを提供していた時代があった。今起こっている変化は、そういう「権威」の化けの皮がはがれるだけのことなのだ。スノッブな評価が高い「芸術家」でも、大衆が面白いと思わなければ、インターネットの世界では全く評価されない。評論家が絶賛しても、ふつ〜のヒトが楽しくならなければ、だれもアクセスしない。大衆は、今の自分に自信を持ち、今のままでいることに自信を持つようになったのだ。

もちろん、インターネットはコストが安い分、ロングテールといわれる極めてマニアックな世界も成り立ちやすいという特徴もある。だが、ロングテールでウケるにも、「狭い世界に深く刺さる」マニア心をつかむ才能がなくては、人気が出ない。さらに、ロングテールの世界は、常にリアルなマニアの世界と表裏一体である。独立して、ヴァーチャルな世界の中だけで完結するものではないからこそ、インターネットと既存型のチャネルに同時に乗っかる方が、余程効率がいい。

これまた、口がすっぱくなるほど繰り返し主張してきたことだが、技術や制度がいかに変わっても、人間そのものを変えることはないのだ。それぞれの個々人についていうならば、価値観も、意識も、行動も、基本的には変わらない。変わるのは、どういう人たちの価値観や意識、行動などが社会的リファレンスになるか、という点だけだ。そして、それはエントロピーが一方的に増大するように、スノッブなエリートのそれから、一般大衆のそれへと変化していくだけである。


(10/04/30)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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