テクノロジ幻想





前々回のこのコーナー、「情報民主主義」で述べたように、情報化社会になったからといって、世の中に情報通が増えるワケではなく、起こりうる変化は「情報通の行動範囲が広がる」のに過ぎない。テクノロジーが人間の内面を変えるワケことはない。各人の立ち位置や役割はそのままだが、その接点となる機会だけは確実に増える。その分、結果としての情報流通は、確かに活性化する。これは、ある意味情報化の本質である。

中川淳一郎氏の言う「情報発信原理主義者」が、十年一日のごとく語り続けているように、「人間そのものを変え、可能性を広げる」ことはないのだ。ただ、ある種の能力を持った人間が活躍する場を、飛躍的に広げる機能を持っているだけだ。しかし、それは結果的にその能力を持っているヒトと、持っていないヒトの機会頻度の差を広げることでしかない。まあ、持っていないヒトも、面白いネタに出会うチャンスが拡大することは確かではあるが。

かつて1980年代の後半、パソコンはまだDOSベースだったが、使える日本語ワープロソフトが発売され、「ビジネスにも使える道具」として、パソコンが大ブームになった。その頃「パソコン教室」が、雨後の竹の子のごとく開業した。しかし、ワープロソフトの使いかたを学んでも、全く身につかない人もけっこう多かった。というか、身につかないからこそ、そういう「スクールビジネス」が繁盛するというハナシもあるが。

で、当時、そういうヒトがなんで学習できないかを調査したことがある。彼らは、決して知能や理解力が足りないからわからないワケではない。そういうヒトの多くは、そもそも生活の中で文字を書いていないのだ。文字を書くのは、申込書や届出の、自分の住所と名前ぐらいというヒトが、当時の日本人全体の中では、相当なパーセンテージを占めていた。ましてや、まとまった文章など、何十年も書いていないというひとが大部分である。

ワープロとは、文章を書く道具である。文章を書かないヒトには、ワープロソフトを使う目的がない。目的がないのに、道具を使いこなせるワケがないではないか。それが証拠に、当時のヒトがまとまって文字を書く機会としては、「年賀状」が圧倒的であった。確かに、年賀状ソフトは、当時からヒットアプリケーションの一つであり、ウィンドウズになってグラフィック力がアップしたこともあり、今でも定番ソフトとなっている。

文章を書く目的や能力が欠けたヒトがが、ワープロソフトの操作法を覚えたからといって、たちどころに文章を書く目的や能力に長けた人間になるワケではない。新たな技術が出てくると、なぜかこの大原則を忘れてしまい、勘違いするヒトが出てくる。どんな技術が生まれたところで、それが人間に平等なチャンスを広げるものではない。これが、先進テクノロジと、人間の能力の基本的な関係である。

当然、コンピュータやインターネットでなくても、この法則は貫徹している。たとえばラジオでもテレビでも、その登場以前と以後を比べれば、それによりどういう変化が起こったかがわかる。このようなメディアも、それが新たに登場した時に、新たな才能を持った人間を生み出したワケではない。新時代のニュースターが生まれたように見えても、それはすでに才能を持っていた人間を、開花させただけである。あくまでも、才能を持った人間の「活躍の場」を広げたのに過ぎない。

町内のスターが、地方のスターになる。関西のスターが、全国区のスターになる。隠れていたスターが、誰でも知っているスターになる。新しいテクノロジが引き起こすのは、これだけでしかない。「甲子園」ではないが、全国区のスターになれたヒトなら、ご町内のスターには必ずなれる。同様に、ご町内のスターにさえなれなかったヒトは、どんなにメディアテクノロジーが発達しても、全国区のスターにはなれない。

メジャーな世界では、マスの数がモノをいうが、ロングテールのマニアックな世界は違うだろう、と反論するヒトがいるかもしれない。だが、オタクの世界でも同じだ。10人のヒーローが、100人のヒーロー、1000人のヒーローになるだけ。独りよがりの、勘違いキモオタが、いくらインターネットで発信しまくっても、誰一人反応しない。いじめられっ子は、マニアの世界でも、ヴァーチャルな世界でも、いじめられっ子なのだ。

これは、人間の才能の分布が、そもそも非対称的であるコトに起因する。才能のある人間は、きまって少数派である。というより、持っている人が少ない、百人並みでない非凡な能力を、才能と呼ぶのだ。誰もが持っている能力、そこまで行かなくても過半数のヒトが持っている能力は、才能とはいわない。たとえばふつうにメシを食う能力は、才能足り得ない。だが、普通ではない大喰いになれば、ギャル曽根ちゃんではないが、才能である。

文芸の世界、特に詩や俳句では、当代の第一人者といっても、創作した詩や俳句で食っていくことはできない。何か職業を持っていて、そっちで食っているか、文章で食っていたとしても、稼げているのはエッセイやコラムであり、詩や俳句ではない。これは、純文学でも大同小異であり、小説の印税で食えているひとはわずかである。芥川賞作家でも、稼ぎになっているシゴトという意味では、雑文書きのフリーライターと大同小異である。

音楽や芸術でも、けっきょくは同じ。それで食えるかどうかはさておき、クリエイターという意味では、プロもハイアマチュアも同じ範疇に入る。作品をクリエイトできるヒトと、できないヒト。人間には二種類しかなく、前者の方が圧倒的に少ない。自らウケるネタ、新しいネタをひねり出せるのは「芸人」である。同様に、クラスの人気者、町の人気者であっても、自分でネタを作れるなら、アマ「芸人」であり、その才能のレベルはさておき、誰にもできる世界ではない。

テクノロジは、才能があるヒトには優しい。確かに、可能性を広げてくれることにもつながる。だが、そうでない人には、なんら変化は起こさない。逆に、数多い大衆がテクノロジを飲み込んで「普及」してしまうと、先進的なものではなく、極めてベタなモノになっている。普及し、消費されてしまった時点で、エッジはなくなっていることに気がつかなくてはいけない。日本のハイテクメーカーが滅びたのは、とんがったままで大衆の中に広がってゆくという幻想を捨てることに気づく必要がある。


(10/05/21)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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