メッケルが教えるもの





江戸時代の武士は、戦国時代のように「戦士」としての活躍はなくなったが、幕府や藩の高級官僚として責任ある地位につき、社会的な役割を果たす存在になった。そのための基礎・基本として、儒教的教養を身につけることが求められていた。儒教精神とは、封建的な社会スキームの中で、リーダーシップを発揮するために必要となる知的要件・精神的要件を説いたものである。そういう素養があることが、責任ある存在となる条件であった。

もちろん、武士階級に属する個々人については、無責任なヒトも、いい加減なヒトも、ずるがしこいヒトもそれなりにいただろう。全ての武士が、「武士道精神の鏡」だったワケではない。だが、マクロで捉えたときには、庶民とは違う責任感をわきまえたヒトたちであることは、統計的に優位な差があるはずだ。これが「有責任階級」である武士と、「無責任階級」あるそれ以外の庶民との、最大の違いである。

儒教的素養があり、自ら積極的に責任を取るマインドを持っている。それはとりもなおさず、大局的見地からモノを見るとともに、目先の利権に左右されずに判断ができるヒトたちだということになる。そういう意味では、江戸時代における武士の素養を持った人なら、戦略的発想は充分できる。皮肉なことだが、逆に「いくさ」が武士の役割ではなくなってしまったがゆえに、戦術的テクニックは乏しくなっていたコトも事実だ。

豊かな戦略発想と、乏しい戦術発想。これが支配階級としての武士の、江戸時代末期における実像だ。その典型的な例を、幕末の西欧列強との対応に見ることができる。「型の武道」はたしなんでも、実際に戦争で役立つ技術は持っていない。さらに、近代的な戦術に関する知識は欠如している。薩英戦争や下関戦争など、列強が繰り出す近代的武力の前には、血気盛んな武士層を抱えた雄藩でも、赤子をヒネるようにやられてしまう。

戦術的な面では、欧米列強にはからきし歯が立たない。この勝負は、それこそ列強の植民地となる危機でもあった。しかし、これを救ったのが、戦略的発想ができる教養だ。それらを元に、当時としては世界に通じるような、政治的な大局観、戦略的発想ができた。それゆえ幕府と米英との交渉は、それなりに戦略的発想で駆け引きを行い、ほどほどのところでソフトランディングさせている。

まさに、武士的教養に基づく戦略的発想ができたからこそ、列強との開国交渉、条約交渉において何とか渡り合うことが可能となり、それなりに独立を維持し、不平等条約ながら、列強の間になんとか割り込むコトができた。その巧みさは、明治時代になって一層磨きがかかった。明治期におけるリーダー層は、近代教育ではなく、江戸時代の武士としての基礎教育を受け、武士としての教養を身につけていたヒトたちであったことを忘れてはならない。

創成期の帝国陸軍のドイツ人顧問メッケルは、初期の陸軍大学校で教鞭を取り、その後の陸軍、特に参謀本部に大きな影響を与えたことで知られている。メッケルは、プロイセンにおいても教育畑出身で、歴戦の勇士というタイプではなかったが、専門分野は応用戦術で、実践において各部隊がどう動くかという、戦術の専門家であった。軍事戦略や、政治と軍隊のかかわりなど、戦略は専門外であった。

帝国陸軍が、短期的な部隊の戦術の発想しかできず、政治や地政学的な情勢を含めた「戦略的な発想」ができなかったことは、歴史的事実を見ればすぐわかる。これを、「メッケルのせい」とする向きも多いが、コレはちょっと違うのではないか。それこそ無責任な発想である。タマゴと鶏という意味では、日本の側に戦術重視のニーズがあり、それとフィットするコンピタンスを持っていたメッケルが招聘されたと考えるべきだ。

江戸時代においては、有責任階級としての武士が存在した分、庶民は無責任に世渡りしか考えていなくても済んだ。当然ビジョンなど必要なく、現実を前提にして、その中でいかにおいしい思いをするか、という発想しかなかった。戦略は必要なく、目先の利権に食いつける戦術があればいい。これが染みついていたから、明治時代になっても、一般庶民は戦術さえあればいいという発想から抜け出ることはなかったのだ。

そして、陸軍士官学校・陸軍大学校を出て、将校になるヒトたちの多数は、一般庶民出身だったのだ。司馬史観が語るように、近代日本がマトモだったのは、世紀の変り目である日露戦争の頃までで、それ以降大衆社会化とともに堕落が始まった。近代日本は、武士の素養を持った階級があることを前提にデザインされた。有責任階級がリーダーシップをとることを前提にすれば、明治憲法は極めて優れた、19世紀的立憲君主制においては、究極のガバナンスを発揮する。

しかし、それに代わって台頭してきた官僚や軍人達は、一般庶民から偏差値だけで成り上がってきた連中である。こういう輩の持っている素養は、江戸時代からの一般庶民のそれでしかない。素養のない人間に対し、エレベーター式に地位や権力を与えてしまえば、ガバナンスもクソもなくなってしまう。日本という国をダメにしたのは、メッケルではない。メッケルを求めた、無責任な大衆の発想なのだ。それを、無責任であるがゆえに、メッケルに押し付けて知らん顔を決め込んでいる連中こそ、日本をダメにしている張本人なのだ。


(10/05/28)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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