神学論争





ガラパゴス化とは、規制と許認可行政による非関税障壁に守られて、世界でも独特の「進化」を遂げた日本市場を揶揄したコトバだ。そんな生きた化石天国の日本でも、もっとも浮世離れした、ガラパゴス中のガラパゴスといえるのが、アカデミズムの世界だろう。なんせこの世界の住人たちは、日本の一般社会の常識さえ通じないほど「特殊進化」を遂げてしまっているのだ。

元々日本の「学界」においては科学信仰が強く、そのため真実が一つであることを示せることが、「科学化」であると考えている人が多い。ご丁寧なことに、この傾向は立ち位置が本来の科学から遠くなるほど、一段と強くなる。自然科学より社会科学で強く、人文科学ではそれよりさらに強くなり、原理主義に陥りがちである。もとも人文系は、客観性を問うものではないだけに、その争いは、ほとんどイデオロギーや宗教の論争のようである。

確かに「客体としての自然界に起こっていること」はあるし、それは起こった時点では「客観的に唯一」であることも間違いない。しかし、これは人間にとっては永遠にあずかり知れない世界の出来事だ。不確定性理論ではないが、それを人間が把握した時点で、ある種のバイアスがかかってしまうからだ。さらに、その事象を「認識する」となると、もはや認識した人間の主観と分かちがたい世界になる。

昔、昭和40年代ぐらいまでは、小学校で色弱の検査とかが行われていた。今話題のアラフォー・アラフィフといった40代以上の方なら、いろいろな色のドットがまぶされた、その不思議な検査表を見せられた記憶があるだろう。こういう経験を持っている世代なら、人間によって、あるヒトには見えないものが見えていたり、あるヒトには見えているものが見えていなかったりすることを、実体験として知っていることになる。

人間の認識というのは、このように相対的なものでしかない。一人の人間の中では、認識の一貫性は担保される。だから別の個体を見ても、「これは犬だ」と判断できる。だが、「あなた」の認識と「わたし」の認識とは、それぞれの人間の中では一貫していても、全く同じである保証はどこにもない。「あなた」の頭の中にあるイメージは、「わたし」からは絶対に見えないモノだからだ。

たとえば、今建設中の東京スカイツリーを見に行ったとする。その場で見ている対象としての「スカイツリー」は同一だが、認識している内容が一致している保証はない。二人の人間が、各々の頭の中で、全く違うイメージで認識していたとしても、ひとりの人間の中で、実物のスカイツリー、写真のスカイツリー、映像のスカイツリーで同じイメージが想起されているなら、何も困らない。要は、内部処理のデータ形式の問題だからだ。

各メーカーの携帯電話端末を比べれば、使われているCPUも、制御基本ソフトも、アプリケーションソフトも、昔に比べればバリエーションは減ったものの、まだまだ何種類ものバリエーションがある。このように、内部の仕組みが全く違っていたとしても、相互に電話やメールでコミュニケーションが図れれば、何も問題がない。それと同じで、アタマの中の内部処理がどうあろうと、社会生活を送る上では問題にならない。

同様に、アクセルとブレーキのペダルの位置が逆のクルマや、ハンドルを回す方向とクルマが曲がる方向が反対になっているクルマがあったとする。相互に乗り換えるのなら危険極まりないが、各ドライバーは一生どちらかのクルマにしか乗らないのであれば、何も困らないし、両方のクルマが混在して走っていても、クルマの流れという意味では、何ら問題は生じない。

ヒトの問題、社会の問題は、元来、こういう曖昧さを内包している。人が介在し、社会的な視点から論じるのであれば、真実が一つであるということ自体、解明不可能な問題である。18世紀ぐらいまでなら、扱う問題がプリミティブなので、科学の課題は、共通に「見えている」事実に対し、それをラベリングすることでことたりた。社会科学や人文科学の方法論や目的性は、この18世紀的な域を超えられなかった。

その一方で、工学やマーケティングなど、自然科学の周辺からは、最初から科学であることを求めず、実用的な最適解を求めることを目的とした「実学」が発達した。しかし、これらの実学は、特にヨーロッパにおいては、アカデミックな学問とは一線をおいたものとされ続けてきた。実際の発明・発見や特許の数、論文の数からいえば、工学系が圧倒的であるにもかかわらず、「ノーベル工学賞」というのがないのが、なによりその証拠である。

ましてや、真実が個人化、相対化しているのが、今の日本である。こういう状況の中で、アカデミズムを声高に主張すれば、世の中の流れが見えない、超KYなトンデモ理論にならざるを得ない。真実は、人の数だけ、それぞれの心の中に存在する。それを前提にしている以上、どんなにその理論の正しさを証明しようとしても、数ある真実のワン・オブ・ゼムにしかなりようがない。

真実が多様であることを前提とし、学問的体系を構築しなければ、今後社会科学、人文科学は、学問として生き残れない。そういう意味では、多様な真実を統計的に処理し、その時点でのダイナミックな傾向値を出すぐらいしか、今後社会科学、人文科学には道が残されていないのではないだろうか。もしかして、偉大なセンセイ方は、こういうむなしさにとっくに気付いてしまったからこそ、不毛だが楽しい「イデオロギー論争」を楽しんでおられるのかもしれないが。


(10/06/11)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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