人生設計





近代社会においては、基本的に、自分がどういう生きかたを選ぶかは、公序良俗に反しない限り自由である。もっとも、その生きかたを実際にできるかどうかは、金の問題、運の問題などボトルネックも多く、決して保障されているわけではない。しかし、望むコト、トライすることは自由である。この点が、それ以前の古代社会や封建社会と大きく異なる点だといえるだろう。

しかし、こと「人生設計」の多様性に関しては、近代社会以前から多くのバリエーションがあった。それは、世界にはいろいろな民族や文化があるからだ。その風土や環境、そこに住む人たちの歴史など、いろいろな要素が組み合わさった「先祖からの知恵」が、各地域ごとの特色を生かした料理や、各地の生活を反映した宗教があるように、それぞれの地に最適なライフスタイルを生み出した。

近代以前に於ては、交通や情報のインフラが未発達だったこともあり、それぞれのエリアで最適化が進んでいた。そのライフスタイルは、ある意味人間が自然の一部として生活可能な規模感をベースとし、バランスの取れたエコシステム(生態系)の一部となっていた。大量生産・大量消費、遠距離間での商品・人員・資金・情報の移動といった、近代産業社会特有のマクロなダイナミズムとはことなるスキームの世界である。

当然、日本に於てもこれは同じ。江戸時代までは、各地域毎に最適なエコシステムが作られていた。実は、この生態系は、極めてバランスがよく、安定的であった。江戸時代に於ては、鎖国の中で200年以上も平和な時代が安定的に続いたことが、それを示している。江戸時代は、極めてサステナブルな時代だった。これがオカシくなったのは、明治になり、それまで培った日本型のライフスタイルを否定し、西欧型のライフスタイルを移入するようになってからだ。

富国強兵のスローガンとともに、近代産業社会型のモデルを導入し、西欧列強に追いつくコトを目指した。それにより、日本型のエコシステムは破綻した。しかし、それによりもたらされたのは、常に右肩上がりを続けなくては続かない、自転車操業型のエコシステムである。国内でバランスしていた、サステナブルなエコシステムは機能せず、海外に侵出してパイを拡大しなくては維持できない社会になってしまった。

これが、日本を破滅に追い込んだことはいうまでもない。しかし敗戦でも、その矛盾は解決されないまま、第二次大戦後も近代産業社会型のライフスタイルを目指す社会が継続した。冷戦体制に裏打ちされた、アメリカを中心とする世界の政治・経済体制の中に位置づけられることで、均整の取れた日本のエコシステムは、復活しないどころか、ますます解体が進んだ。

今の日本には、そういう環境の中で生まれ育った人間しかいない。現状の、右肩上がりを前提とした、バブリーなエコシステムや、それを是とするライフスタイルしか知らず、それが正しいもの、最善のものと思い込んでいる。近代主義、成長主義に、完全に洗脳されているようなものだ。このマインドコントロールのくびきから抜け出すことが、今の日本人にもっとも求められているコトだ。

たとえば、当たり前のように「就活」に励む若者たち。人間の生きかたは、別に会社員になることだけではない。自分のやりたいことがあれば、それを実現する方法はいくらでもある。確かに、無責任に楽して喰っていくには、官僚や会社員はメリットが大きい。だからといって、会社員にならなくては喰って行けない世の中を、どうしておかしいと思わないのか。

昨今、草食男子に代表されるように、若者に欲がなくなった、消費意欲が減退していると指摘されている。また、若者の行動範囲も縮小し、生まれ育った地域の外側に出るのが億劫になっている。都心型の百貨店のビジネスモデルが破綻したのも、マーチャンタイジングの問題以上に、若いヒトほど、わざわざ時間をかけて都心部へ行きたがらなくなったことが大きい。

人間というのは、環境適応力が高い動物である。他の動物が住もうとはしなかった極限の環境にも、足跡を残していることがそれを如実に示している。人間の適応力は、自分を変えるのではなく、危険水域に達する前に、リスクを回避する行動が取れることによりもたらされる。そういう意味では、日本の若者が、近代産業社会的な価値観から脱却しようとしていることは、正常な進化でもある。その結果として、多様な人生設計が認められるようになれば、日本は安泰といえるだろう。


(10/06/18)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる