生きる術





本当に豊かなこと、本当に幸せなこととは、何だろうか。今の日本は、それを真剣に考えるべき時にきている。それはなにより、現状に満足できること、そして多くを望まないでいられることである。20世紀半ばまでの日本は、基本的には貧しく、飢えている社会であった。そういう状況では、何よりもまず、経済の発展を願うことになる。そして「右肩上がり」を目指す。変化を求めるということは、貧しい現状を否定することであった。

もっと豊かな生活がある、もっと幸せな暮らしがある。そう思っていることは、とりもなおさず「現状に不満があり、それを解消したい」と思っていることに他ならない。それなら、現状に満足し、それ以上を求めない状態こそ、本当に豊かであり、本当に幸せであることになる。ところが、これは他律的に与えられるものではない。他人や環境が、自分を豊かにしてくれたり、幸せにしてくれるということはありえないのだ。ここに豊かさや幸せの本質がある。

もっともっとと高望みをしている限り、どんなにモノがあふれても、どんなにお金が溜まっても、いつまで経っても「これで充分」と満足できる日はこない。当たり前である。モノにしろ、お金にしろ、0を重ねてゆけば、いくらでも桁数が増える青天井だ。打ち止めになる日は永遠にこない。あるのは、不幸の自転車操業だけだ。これは、自分で幸せになる可能性を否定してしまっていることだ。

逆に「今が幸せである」「今でも充分豊かである」と、今ある自分に満足できるなら、その瞬間から、幸せが手に入り、豊かさを感じることができる。現代日本人、特にバブル期までの右肩上がりの時期に育った人間に、最も欠けているのは、この「モノゴトを肯定的に捉える」感覚だ。そして、これこそが最大にして唯一の「幸せへの鍵」なのだ。グチとネタみに生きるのか、温和で安らいだ心を持って暮らすのか。その分かれ道がここにある。

産業革命から間もない19世紀のヨーロッパ。多くのヴィジョナリスト達が、人類の目指すべき理想的な社会である「ユートピア」を夢見た。そこで描かれたのは、誰もが現状に満足している社会だ。実は、あのカール・マルクスも、その一人である。彼の本質は、経済学者でも、政治家でもない。ましてや、20世紀的な感覚での社会主義者でも共産主義者でもなく、人類社会の理想の姿を描いた、ヴィジョナリーな哲学者なのだ。

その理念を、一言に突き詰めて言えば、「生産力が上がり、みんながそれなりに豊かな社会になれば、人類は平等で幸せになれる」というものだ。そこへのプロセスとして、近道の一つとして、所有や配分の問題が語られたに過ぎない。この理想郷を政治的に歪め、社会主義、共産主義の理論にしてしまったのは、アジテーターであるエンゲルスの罪である。そういう意味では、社会主義、共産主義の誤謬や欺瞞性が証明された今となっても、マルクスの「哲学」自体は意味を失っていない。

若者が多くを求めず、現状に満足しているのが、今の日本社会である。皆が皆、上を目指す必要がない。それでも1割ぐらいは「上昇志向」のヤツも混じっているので、グローバル対応とか、イノベーションとかは、この「1割くん」に任せて、あとの9割は、本当の幸せや本当の豊かさを味わえばいいのだ。日本人は、真の幸せや豊かさを手に入れようとしている。それを、バブルに浸りきったロートルたちが批判するなどというのは、お門違いもはなはだしい。

20世紀後半の日本は、旧ソ連や中国などの共産党から、「社会主義の成功例」といわれた。事実、太平洋戦争の戦時下にその端を発する、官僚主導の「40年体制」が目指したものは、ソ連の官僚機構と計画経済であった。この文脈で考えれば、、理想主義を政治のアジテーションや権力闘争の道具に貶めたエンゲルスのくびきから脱し、マルクスの夢見た理想社会が日本で実現したというのも、まんざら不思議ではないということか。


(10/07/02)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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