庶民の選択





すでに何度も論じてきたように、日本においては、無責任階級としての江戸時代の庶民が、そのメンタリティーを持ったまま20世紀を迎え、19世紀的なスキームが確立する前に、大衆社会を形成してしまった。これが、日本社会の本質的な特徴となっているだけでなく、同時にあらゆる構造的問題の要因となってきた。戦前の軍国主義も、戦後のエコノミックアニマルも、すべてここから生まれてきた。

大日本帝国憲法に基づく明治憲政は、あきらかに19世紀西欧的な、階級社会に支えられた立憲君主制を目指して構築された。制度設計の際には、参考にすべき先行事例が多かっただけに、立憲君主制としては、かなり完成度の高いエレガントなシステムといえる。国家システムに対する異なるステークホルダーである、有責任階級と無責任階級が、CEOとしての「天皇」をピボットとして向き合い、バランスを取る。

「天皇は神聖にして侵すべからず」という条文は、親鸞の「他力本願」とならんで、世の中で誤った解釈が流布している二大フレーズである。これは、19世紀の立憲君主国の憲法には必ず見られた条文であり、「神聖にして」とは、天皇(国王でも皇帝でもいいが)は政治的な存在ではないことを意味し、「侵すべからず」は、責任主体としての当事者性がないことを意味する。すなわち、「君臨すれども統治せず」と同様の意味である。

それは、天皇のバックに、政治的責任を取る当事者としての有責任階級がいるからこそ成り立つ構造だ。確かに明治時代においては、それなりに機能していた。これを換骨奪胎し、もともと責任の取りようがない天皇の名を語り、そこに責任を押し付けてしまえば、究極無責任体制になる。まさに、久野収氏の語る「密教(本来の明治憲政)」と「顕教(換骨奪胎の無責任体制)」の対立である。

有責任階級と無責任階級という二つのステークホルダーを結ぶ、CEOとしての天皇か。それをかざすだけで無責任の免罪符となる、紋所としての天皇か。戦前日本の暴走も、バスに乗り遅れるなと、国民全体が無責任の紋所を手に入れようとしたところにある。そして、その究極の姿が、戦時体制として構築されたまま、今に続いてる、官僚主導の「40年体制」である。これをもって、無責任階級の庶民による、究極の無責任体制の確立といえる。

とはいうものの、1970年代になり、高度成長の成果を国民全体が享受できるようになるまで、日本は貧しい国だった。そして貧しい間は、無責任になりきることはできない。なぜなら、とにかく腹を満たす必要がある。あらゆる責任から逃れようとしても、貧しい間は、「腹を満たす責任」からは逃れられない。そしてその延長で、上昇志向がある間は、無責任になりきれなかった。究極の無責任体制が出来上がるのは1980年代を待たねばならない。

究極の無責任体制が出来上がると、人々は、ポリシーや考えを基準にして、モノゴトを選択するワケではなくなる。無責任である以上、刹那的に、一番楽しいもの、面白いもの、好きなものを選ぶだけである。マーケティングの対象となる、商品やサービスはもちろんだが、現状の生活を肯定し、満足している以上、社会的な選択、さらには、自分の人生の選択に於ても、刹那的な基準で判断するようになる。

旧来の政治評論家的な見地からすると、05年の衆議院選挙、07年の参議院選挙、09年の衆議院選挙、今回の参議院選挙と、選挙の結果は毎回変わっていることになる。実際、コメントに苦労している評論家や学識者も多い。しかし、大衆の行動原理がわかっていれば、この結果は決して不思議なことではない。それどころか、大衆の選択は一貫している。一貫した選択をしているからこそ、毎回「勝者」が変わるのだ。

これを理解するには、スポーツで、ひいきのチームや選手のない試合を応援する場合を考えればいい。贔屓がない分、表面的な展開がエキサイティングかどうかしか、思い入れを込めるポイントはない。となると、チャンスとピンチが交互に入れ替わり、波乱万丈の激戦になるのが一番面白い。それも、堅守というよりは、ボカスカ点を取り合う大乱戦になればなるほど、試合はエキサイトする。

これと同じことだ。政治だろうとなんだろうと、全ては「ゲーム」であり「祭」だというのが、今の日本の大衆の選択基準である。「祭」としての選挙が、一番面白くなるには、まさに、結果が波乱万丈の大乱戦になるのがいい。「守旧派への刺客」が面白いと思えば、小泉自民党に票を入れ、「政権交代」が面白いと思ったら、民主党に票を入れる。それが、一番「祭」が盛り上がるからだ。これは、いいとか悪いとかいう話ではなく、日本の大衆の事実である。

モラル的判断ではなく、事実を事実として認めるところから、マーケティングは始まる。選挙で勝つには、この「理」を受け入れなくてはならない。もし今回の参院選で民主党に敗因があるなら、それは「管さんは、思ったほど面白くなかった」ということだろう。なんで面白くなかったは、問うことができない。面白い、面白くないは、あくまでも気分だからだ。そして、その気分を捕まえたところが、選挙で勝つ。構造は、至って単純明快。問題は、それを受け入れられるかどうかだけなのだ。


(10/07/16)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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