存在の条件





上流であること、ホンモノであること。なり上がりや成金としての「セレブ」ではなく、生粋の「セレブリティー」であること。その決定的条件は何だろうか。それは、他に期待したり依存したりせず、自己完結で行動できることだ。自分の中に選択基準があり、行動の基準も自分自身にある。人からどう見られるか、どう見られたいかではなく、自分として納得できるかどうかで判断する。

こういう行動様式を取れるかどうかが、ホンモノかどうかの踏み絵となる。かつて、バブル期の日本でのブランドブームや、今の中国人のブランド志向は、そのブランドを纏うことで、自分自身がヒトから「一段格上」に見られたいという、上昇志向をモノに託することがモチベーションだった。エスタブリッシュされたブランドイメージがあり、その「威を借りる」ことで、自分の中身のなさ、下流さをカモフラージュしようというものだ。

この「他力本願」ぶりこそ、成り上がりや成金に代表される、金だけはあるが品はないヒトたちの行動様式の特徴だ。一方、本当の意味で上品な上流のヒトも、ブランド商品を使わないわけではない。というより、もとも欧米ではブランド商品とはそういうヒトたちものだった。この場合は、そういうヒトたちのおメガネにかなったものが、偶然そのブランドだったということに過ぎない。

ブランド商品よりも、そのブランドイメージよりも、それを使う一流の人たちのほうが、よほど格上なのだ。そういう一流のヒトたちに選ばれることで、そのブランドのイメージが形成される。ブランド商品と、それを纏うヒトとの立ち位置が、偽セレブと本当の上流階級では、全く逆になっている。高級ブランドをめぐって、「真の上流階級>高級ブランド>成り上がり」というヒエラルヒーが、歴然と成立している。

これは、ブランド「商品」だけに限らない。「学校選び」や「会社選び」でも現れてくるのが、日本社会の特徴だ。自分の中身のなさをタナに上げ、学校のブランドや会社のブランドに擦り寄ることで、自分をより高く売ろうとする。まさに「寄らば大樹の陰」。ブランドイメージという大樹の陰に隠れ、自分の中身を偽装しようという魂胆が見え見えである。で、その基準が「偏差値」というのだから、何をかいわんやである。

しかし、その組織のブランドに寄りかかろうとする人が多いということは、とりもなおさず、そこに集まってきている人は、そのブランドの閾値以下の存在であることを意味する。ブランドと階級のヒエラルヒーがわかっているなら、その行為は「自分にそれ以下の中身しかないから、ブランドでハカマをはかせたい」という浅ましさの反映でしかないことは、すぐにわかる。有名校、一流企業を志向したがるというのは、そういうことなのだ。

だが、一流の人間だと、この力関係が逆になる。その人が選んだ学校や会社だから、社会的評価が高くなる。元来のブランド品も、世界の一流のヒトたちに選ばれたからこそ、ブランド価値が生まれている。こういう立ち位置を作らなくてはいけない。これからの日本に必要となるのは、このような役割を果たすことができる、上流のヒトたちの存在である。実は、日本にはそれなりに上流の人がいる。

少なくとも戦前に於ては、生活面でもモラル面でも、上流といわれる人たちがいた。日本社会の大衆化の波の中にまぎれて、目立たなくなったしまったが、上流の人たちの上流性は、2代や3代で失われるワケではない。所得に代表されるような、定量的な指標では捕まえることが難しいし、戦後日本は、そういう「階級差」があることをオフィシャルには認めない世の中だったので、極めて見えにくくなっているコトも確かだ。

だが、質実剛健な生活を堅実に行っている「資産家」の中には、かなりのパーセンテージで「戦前の上流」を受け継ぐヒトたちが存在している。こういう人々を、再び際立たせ、社会のリファレンスとしてゆくことができるかどうか。日本が、「皆がリッチになった開発途上国」ではなく、「文化的な先進国」に真の意味でなれるかどうかは、こういうヒトたちを社会的に尊重する世の中になれる可能性にかかっているのだ。


(10/07/23)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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