ガキ国家





最近の若者は、ストレス耐性が弱いとか、責任感がないとか、よく言われている。確かに、社会人になってはじめてストレスや責任に晒され、メンへルになってしまうヒトも多い。その結果、正社員になったものの、2〜3年でヤメてしまったり、うつ病を発症して、出社拒否になってしまう。精神分析的にいえば、これは「対象喪失」に対する弱さということであり、「成熟拒否」がその原因にあるモノとして捉えられる。

幼児的な万能感は、単に世の中を知らないからこそ成り立つものだ。それをあきらめ、現実を現実として受け入れることが成熟である。現実を直視しないことによって、幼児的な万能感を持ったまま、体だけが成長し、第二次性徴期を迎え、肉体的には「大人」になってしまう。こういう、「こころは赤ちゃん、体は大人」という人間が増えている。しかし、この症状はどうやら、若者のみならず、日本人の過半数、日本という国自体にも見られる病のようだ。

日本のコンピタンスというと、バカの一つ覚えのように「モノ作り」という人がいる。かつて「モノ作り」が、日本のお家芸だった時代があったことは確かだ。しかし「モノ作り」は、元気だけが有り余り、マスターベーションを一晩に5回も10回も抜いても、まだ性欲があふれている、若者のような国にこそふさわしい。そういう、持て余さんばかりのエネルギーがあってこそ、モノ作りである。果たして、今の日本がそうなのか。

日本は、グローバルな役割としては、モノ作りで貢献すべき「青年期」はすでに過ぎ、責任ある立場を果たすべき「壮年期」になっている。にもかかわらず、中国に代表されるような、現在「青年期」の国と、「モノ作り」でタイマンを張ろうとしている。すでに体は大人になっているのに、心は子供のままで、大人としての責任をとろうとしない。これが、世界の中での、今の日本の立ち位置である。

これは、「幼児的な万能感」とうり二つではないか。というより、共同体的な曖昧さの中で「幼児的万能感」が認められていた、江戸時代の無責任階級たる庶民が、明治時代を迎えて、そのまま大衆社会の主役になってしまった日本社会特有の現象である。すなわち、日本の大衆の特徴である「甘え・無責任」とは、「幼児的な万能感」が、外側の社会に向かって発露されたものに他ならない。

「幼児的な万能感」を捨て去れない「大人」は、「自己愛」を捨てられない自分と、「自己愛」を受け入れない社会との間で、居場所を失う。その結果、社会との接点を断とうとすれば、ひきこもりやニートになり、社会を否定しようとすれば、モンスターペアレントやモンスターペイシェントになるワケだ。まさに、ひきこもりやニートは「甘え」であり、モンスターなんとかは「無責任」そのものである。

「心の病」を病んでいる人の増加が、今重大な社会現象となっているが、こう考えると、この問題は、そもそも「甘え・無責任」なヒトたちに、社会が「自立・自己責任」であることを求めていることが原因である。そういうヒトたちがマジョリティーだからこそ、国自体も自立できず、現実を直視できないまま、いつまでも過去の栄光にすがろうとする。これでは、引きこもり国家になるか、モンスター国家になるしかない。

確かに、日本は過去、引きこもり国家である「江戸時代の鎖国」も経験したし、モンスター国家である「戦時下の軍部主導の暴走」も経験した。江戸時代においては、政権を担った武士層では、決して国が閉じていたワケではなく、海外の情報も的確につかんだ上で政権運営をしていた。ペリーが黒船を率いてやってくることも、ちゃんと事前に把握し、それなりの対応を考えていたからこそ、とんでもない混乱状態にはならなかった。

しかし庶民層は、自分のムラの外側のことなど気にせずとも生きることができた。一番遠くに思いをはせるのが、せいぜい伊勢参りだった。これなら平和に過ごせるのは、歴史が示している。しかし、庶民自身がモノを考え、判断するようになると、モンスター国家になって、世界レベルで無責任な暴走をしてしまうのもまた、歴史が示すところだ。そして、日本の庶民のメンタリティーは、何も変わっていない。おのずと、どういう道を選ぶべきかは明らかだろう。


(10/07/30)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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