刷り込み効果





秋葉原で大量無差別殺人事件を起こした犯人が、動機の一つとして、ネット上の掲示板しか自分の居場所がなかったのに、そこでもイジメられ、シカトされたので、いたたまれなくなり、キれてしまった、という旨の陳述を行った。これを承けて、巷にはいかにも見当ハズレのコメントが流布しまくっている。その多くが、リアルな世界とネット上の世界を、別のものとして対立的に捉えている「意見」である。

確かに、物心ついてからインターネットと出会った人にとっては、リアルな世界とは別の世界として、インターネットの世界を捉えたくなってしまうだろう。そういう世代の人間には、現実世界とは別の人格を演じ、別の可能性を追及してみたくなる人が多い。しかし、今30代以下の世代にとっては、物心ついた頃にはインターネットは常識だったし、平成生まれの世代にとっては、携帯電話はみんな持っているのが当たり前なのだ。

だから、彼ら・彼女らにとっては、リアルとヴァーチャルの間に線を引くこと自体が理解できない。どちらも、生活の一部分でしかないからだ。20世紀の後半以来、日本では社会の情報化が進み、自我を形成する時期の情報環境は、5歳違えば大きく異なる。当然、ベースとなる「刷り込み」は違ってくる。だからこそ、それぞれの世代が抱えている常識は大きく異なる。これは、電話やテレビでも同じだ。電話観、テレビ観は、世代により大きく違っている。

たとえば、「振り込め詐欺」がそうである。振り込め詐欺の被害者というと、60代以上の女性がほとんどだ。もっとも、関西のオバちゃんは例外という話もあるが。それはそれとして、今の生産年齢人口にカウントされる日本人の一般的な感じかたとしては、「おばあちゃんたちは、どうしてそんな話に引っかかるの」というところであろう。そんな電話がかかってきても、にわかには信じないし、よく聞けば見破れる(聞き破れる)はずだ、と。

それはそうである。しかし、60代以上の女性は育った環境が違う。彼女たちは、「家に電話がない」時代に育った。電話の世帯普及率が50%を越すのは、1970年である。60歳のヒトたちは、当時20歳。それまでは、電話のない家のほうが多かった。当然、電話でムダ話をして暇をつぶすような発想はない。それどころか、電話がかかってくること自体が、ある種の緊急事態である。だから、彼女たちは電話のベルが鳴っただけで舞い上がってしまい、冷静さを失ってしまうのだ。

同様に、「Always 三丁目の夕日」よろしく、家にはじめてテレビが来た日を覚えている団塊世代以上のヒトたちは、真剣にテレビを「観賞」するし、テレビの伝える情報をけっこうアッサリ信じてしまう。その逆で、生まれたときからテレビが家にあった新人類世代以降の人たちは、独自のリテラシーを持っている。かなり斜に構えてテレビを見ているので、中々その内容を鵜呑みにはしない。それだけでなく、「真実でつまらない」より「ヤラセで面白い」コンテンツを好む。

同様のコトが、20代以下の世代については、インターネットや携帯といったインタラクティブなメディアについて起こっているだけのことである。普及率が高くなり、生まれたときから当たり前となっている世代においては、それ以前の世代とは違った「常識」が出来上がっているコトを忘れてはならない。ネット上の掲示板に居場所がなくなるのは、常連だった居酒屋で、自分の居場所がなくなってしまうようなものである。その間に質的な差を見つけようとするほうがおかしい。

学校裏サイトでの、イジメの問題なども同様だ。インターネットを利用しているので、何か今までとは全く違うモノのように感じるのは、単に年寄りだからというだけのことだ。そもそも、イジメにはあらゆるツールや手段が活用される。「靴箱」というのは、昔からイジメの道具としてよく使われるが、だから靴箱を廃止しろとか規制しろとかいう話にはならない。イジメたい子にとっては、掲示板も靴箱も何ら変わらない。使えるモノは何でも使え、というのがイジメだからだ。

イジメっ子がいて、イジメられっ子がいる限り、何でもイジメの道具にできる。問題は道具ではなく、イジメたい気持ちなのだ。これを改善しない限り、ある道具を封じたところで、別の道具をイジメに利用するだけのことである。この構図を理解できない教師のほうが、余程リテラシーを学ぶ必要がある。とにかく、常識は一つではない。刷り込みが違えば、世代によって常識が変わってくる。これはいいとか悪いとか倫理論を言う以前に、今の日本人の事実だ。まず、この事実を受け入れなくては、議論も始まらないのだ。


(10/08/06)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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