組織人の終焉





人間が社会的生物である以上、複数の人間がいるところには、組織が生まれる。これは、人類の歴史とともに普遍的に見られたものである。しかし、その形態は一様ではない。それぞれの時代、それぞれの地域や文化、それぞれの経済力、それぞれの発展度に合わせて、いろいろな形の組織が生まれた。しかし時代とともにニーズとのずれが生まれ、効率的には機能しなくなる。発展と淘汰の繰り返しの中から、結果的に最適なものが生まれてきた。

今、日本でで広く見られる組織形態は、20世紀後半に進化・発展したものがほとんどである。現在のような安定成長期ではなく、高度成長期やテイク・オフ期にオプティマイズした組織形態といえる。その頃は、コンピュータ化・ネットワーク化がまだ未熟だった。事務処理のために、圧倒的に多数のヒューマンリソースを必要とした時代だった。

この時期の採用は、人材の「大人買い」であった。バルクで買うと、次代を担うような、極めて優秀な人材(シークレットキャラ)が混じっている確率が高くなる。その一方で「凡才」であっても、企業規模の拡大に比例して、事務処理量の増加があり、それなりの「手数」を必要としたので、それなりに利用価値があった。企業組織や制度、人事施策はその時代の要請に基づくものであった。

確かに、こういう「人海戦術」を取る必要がある場合なら、スケールメリットは効率性を生む。巨大な組織に大量の人材を抱えたオペレーションも、それなりに意味がある。しかしその一方で、組織が巨大化すると、組織内の死角を増やす。「寄らば大樹の陰」がしやすくなる。組織に寄りかかって、仕事をしないひとは、組織の規模とともに加速度的に増加する。いわばスケール・デメリットである。

こういう状況になると、「甘え・無責任」のための組織として、自己増殖をはじめるようになる。「気楽な稼業」だから、サラリーマンを目指す、という人が増えてくるのだ。企業経営からすると、仕事もせずスネだけかじる存在は、明らかにマイナスだ。しかし、右肩上がりの経済成長がベースあれば、全体として利益さえ出ていれば、多少のお荷物の存在は許されてしまう。税収が右肩上がりの間は、バラマキ行政が許されてしまうようなものでである。

今、一番重要なのは、こういう20世紀的な考えかたがベースとしてきた、誰もがその恩恵にあずかれるような、「右肩上がりの経済成長」が、今後の日本では期待できないという認識である。もっとも、スケールメリットが生きる領域は、今後も残るだろう。それは、いわゆるショートヘッドの部分だ。その領域に対しては、今よりいっそうのスリム化・機能化は必要だが、組織的対応は今後も意味がある。

21世紀的な経済構造を特徴付ける「ロングテール」の部分は、基本的には「個の対応」が求められる世界であり、スケールメリットが活きる部分ではない。この領域は、組織でやっても、結果的には個人レベルの対応になってしまう。大企業でも、オリジナル商品の直販をやっているような部門は、スケールメリットを求める構造ではなく、小回りの効く独立した中小企業のような構造になっていることが多いことも、これを証明している。

それなら、組織の力を利用するより、個人で起業したほうが速い。今まで大組織にメリットがあったのは、ファイナンスの問題だけだ。日本では、この問題があったので、「シークレットキャラ」の有能な人材は、大企業の中で「起業」することで、大企業の持つ信用力を利用したほうが、資金を容易に得ることができた。同様に、優秀な技術者も、自ら技術を開発し売り込むよりも、企業の中で、企業の資金を利用して開発したほうが容易でリスクも少なかった。

これは、自分の判断に基づき、自分でリスクをとる「投資家」が戦後の日本には少なかったからだ。資金提供者は、実質的に法人の投資家しかなく、組織で意思決定する以上、極端なリスク忌避を習性とするのは、金融機関の行動をみれば理解できるだろう。このような状況下では、「大企業」というスキームを使わなくては、資金調達が難しかった。日本経済の構造的問題はここにある。

別に、日本人に創造性が欠けているワケでも、ベンチャースピリットが足りないわけでもない。江戸時代や明治初期に創業した企業家は、まさに起業家精神にあふれていたではないか。問題は、資金のほうだったのだ。これさえクリアすれば、これからの時代は、企業という組織に頼る必要はない。仕事をやる気があるヒトには、企業は必要ない。大企業を必要とするのは、「寄らば大樹の陰」を求める人だけなのだ。そして、もはや寄るべき「大樹」などない時代なのだ。


(10/09/03)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる