「新型うつ」と「甘え・無責任」な日本人





昨今、メンタルヘルスの問題でも、「新型うつ」と呼ばれる症状が、若者を中心にひんぱんに見られるようになった。仕事など、責任を問われる状況になると、にわかに「うつ」症状が現れ、とても仕事が手につかない。しかし、アフターや休日など、のほほんと過ごせる時間になると、たちまち元気を取り戻し、健康そのものといえる状態になり遊びまくる。というのが、その特徴である。少し前から、休職して沖縄やタイに行くと、たちまちうつが治ってしまうヒトたちの存在が知られていたが、それが一般化した感じだ。

それ以前から、企業などでメンタルヘルスに関わる人たちの間で、極めて「ストレス耐性が低い」新人が目立っており、彼らがいろいろと心のトラブルを発生させがちであることが話題となっていた。とにかく「責任」の二文字が苦手で、なにか判断をしたり、腹をくくって行動しなくてはいけない状況になると、にわかにパニック状態になってしまう。このような症状は、良い子の秀才タイプに多いといわれている。

言われたことをキチンとこなして誉められた体験しかなく、自分で決めたり判断したりして、自ら責任を負って行動したことがないまま、大人になってしまったのだ。秀才なので、演繹的、論理的にまとめるのは、テストの勉強と同じなので得意である。これでこなせる仕事なら、てきぱきとこなす。しかし、今やそういう仕事はシステム化されている。人間がやる仕事は、対人交渉とかが中心となっている。そこには、自分の責任で判断することがつきものである。当然、無から有を作り出すのは苦手である。

こういう人間にクリエイティビティーが必要な仕事を任せると、自分に対する評価の甘さが出てきて、ロクなものにはならない。秀才の代表たる官僚にクリエイティビティーがないのと、同じ理由である。たとえば企画を作らせても、レポートをまとめさせても、同年代の社員のアベレージ以下のモノが出てくることが多い。その反面、自己愛が強いので、自分では「スゴい出来」だと思い込んでしまっている。

その結果、「批判され弱い」という「病状」が現れてくる。とにかく、自分に対する全能感が強すぎるのだ。確かに、知識とそれをベースとして演繹的に構築できる論理の世界においては、「良い子の秀才」の皆さんが強みを持っていることは認めよう。しかし、それが世界の全てではないし、それの通じない世界のほうが、ビジネスを中心とする実社会には多いのだ。だから、客観的に評価され、ランク付けされると、評価した相手が悪いとアタり出す。

第三者的に言えば、これらは全て、自分勝手で独善的な論理に基づいて判断し、行動しているところに特徴がある。自分の論理体系の外側から、自分を客観的に見ることができない。アスペルガー症候群のような発達障害とまで行かなくても、全体的なコミュニケーション力の低下、空気を読む力の低下が、こういうストレス耐性の低下や、責任回避行動として現れてきていることは明白である。

周りとの輪を乱さないことに、必要以上に気を遣い、TPOでキャラを演じ分ける若者が、この十数年増えていることも、この減少と関係が深い。若者全体として独善性が高まった分、「空気読み力」が低下してきている。それとともに、読み損じた時のリスクへの恐怖感が高まる。もし、変なことを言って嫌われたらどうしよう。もし、自分の行動が相手の機嫌を損ねたらどうしよう。そのリスクを負いきれないゆえに、「自粛」モードに入ってしまうのだ。

さて、高度成長期には、社員に対して「甘え・無責任」が許されていた。そもそも、企業経営においても、利益に対するモチベーションが低く、売り上げさえ右肩上がりならステークホールダーが皆満足していた。ルートセールスと称し、取引先に顔を出すだけで、昼間から映画館や喫茶店でヒマをつぶす。中には、真昼間から風俗に向かう人もおり、こういう連中をターゲットとした「早朝割引」なるサービスもあった。夜は夜で、交際費を使いまくって遊ぶ。右肩上がりの経済が追い風となり、何も努力しなくても、それなりの売り上げは確保でき、なおかつ市場は拡大してゆく。

男性社会とは、即、「甘え・無責任」社会だったワケだが、これなら、文字通り「サラリーマンは気楽な稼業」であり、会社生活は、休日やオフタイムよりも、楽でたのしいものだったろう。「新型うつ」の人は、仕事のときだけ落ち込み、休日やオフタイムにはにわかに元気になる。こういう社会の中では、生真面目にこつこつ仕事をするタイプの人が、まじめに考えすぎて「旧型うつ」を発症こそしても、「新型うつ」が現れてくるワケがない。「新型うつ」は発生するはずがない

今でも、日本社会の中には「甘え・無責任」が許される領域もある。企業でも、(それが競争力を持つかどうかは別として)そういうところはある。しかし、それが通用しないグローバルスタンダードが基準となっている領域は、1970年代までと比べると、格段に広がっている。問題は、ここにある。高度成長期的な「サラリーマン」のマインドと、グローバルな「ビジネスマン」のマインドとは全く異なる。しかし日本の企業風土は、それを変化させることなく、連続してしまっている。

「新型うつ」に限った数字が公表されていないので検証は難しいが、お役所と民間企業とを比較すると、「新型うつ」の発生率には優位な差があると思われる。これはもはや個人の問題ではない。「甘え・無責任」を許すだけでなく、「甘え・無責任」を基調とした組織や社会を構築してきた、日本の社会体制の問題である。その意味で、バラマキ行政も官僚の天下り利権構造も、「甘え・無責任」が生み出した社会的病理という意味では、病根は全て一緒である。

「新型うつ」のヒトたちは、社会的犠牲者なのだ。もともと「甘え・無責任」なヒトたちなのだから、彼らに責任を負わせるワケにはいかない。無理強いしても、なにもはじまらない。問題は、それが「キチンとやろう」という意思を持ち、それができるヒトたちの足を引っ張らないようにすることなのだ。それはそれとして、「自立・自己責任」なヒトたちと区別して扱えるスキームが必要なのだ。それができれば、無理な責任を、嫌がる人に押し付ける必要はない。この心の余裕こそ、今の日本に一番必要なものだ。


(10/09/17)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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