目指せ、階級社会!!





日本のマジョリティーが「甘え・無責任」なヒトたちだというのは、動かしがたい事実である。そして、刷り込まれたメンタリティーが、後天的に変わる可能性が低い以上、ある日から突然に、日本が「自立・自己責任」のヒトたちが中心の国となることはありえない。従って、「自立・自己責任」のヒトたちと、「甘え・無責任」のヒトたちが並存する世の中をどのように作るかが、これからの日本をデザインする鍵になる。

人類の歴史を振り返ると、異種のカルチャーを持ったヒトたちが、ウマく並存していた社会も存在する。その最も成功した例が、違う人間集団を相互にアンタッチャブルにす階級制度である。悪名高きインドのカースト制度も、複雑なインド亜大陸内の民族構成を、民族対立に持ち込まないために、階級の違いに昇華させたことが起源である。互いに接触し、価値観を押し付けることがなければ、コンフリクトが起こることはない。

階級が違えば、同じ国の中、同じ街の中に違う価値観の人々が同居していても、対立関係にはならない。そもそも世界史的な視点では、階級制度とは、差別や特権のためのシステムではなく、異文化の並存のためのシステムであった。この本来的な「階級社会」のシステムを取り入れれば、「自立・自己責任」の有責任階級と、「甘え・無責任」の無責任階級が並存する社会を作ることが可能になる。

この両者は、階級とはいっても、家柄や財産の問題ではない。どちらかというと、思想信条の問題や、宗教の問題に近い違いである。しかし、それが刷り込みの問題である以上、育ちの問題ではある。もちろん、それは「育ちのよしあし」ではなく、どういう育ち方をしたか、どういう環境で育ったかという問題だ。「自立・自己責任」に育ったか、「甘え・無責任」に育ったかというコトである。

実は、愛情あふれる家庭からは、「自立・自己責任」の人間は育たない。戦後の上野の浮浪児から身を起こして、闇市の帝王になり、アメ横の帝王になった人がいる。ある意味、「自立・自己責任」の権化である。帰れるところもなく、受けとめてくれるヒトもいない状態で育たなくては、真の意味で「自立・自己責任」な人間にはなれない。日本に「自立・自己責任」な人が少ないのは、まだまだ社会の中で、共同体的意識が強いからである。

ある意味、過剰なまでに愛情があふれる家庭や共同体の中で生まれ、もたれあい、傷をなめ合える環境で育ったヒトは、それはそれで幸せだと思う。いつまでも、その状態を維持したいと思ってもおかしくない。それが可能であるならば、いつまでもそこに浸っていてもかまわない。しかし、それを正当化したり、ヒトに押し付けたりするのは、明らかにおかしい。問題はここにある。

いつもいっているように、「甘え・無責任」のヒトたちは、自分たちが勝手にそうしている分には、一向に構わない。問題は、それを社会的に正当化し、「自立・自己責任」のヒトたちの足を引っ張ったり、自分たちの負債を「自立・自己責任」のヒトたちに付回すことだけだ。こういう「ごまかし」ができない社会構造にさえなっていれば、いくらでも「甘え・無責任」でいてもらっても構わない。この両者が、互いに接触しないで共存できる社会が理想的である。

それが実現する社会が、階級社会なのだ。違う価値観や文化といった、異なるバックグラウンドを持ったヒトたちが、コンフリクトなく共存できるには、社会活動や経済活動の部分ではコラボレーションもあるが、生活基盤はクロスしないという、階級社会を構築するしかない。幸い、21世紀の現代では、社会の情報化が進んでいる。こういうインフラをバックグラウンドにすれば、封建的な階級社会ではなく、超近代の階級社会を実現できる。実はもう、そちらへ向かって一歩を踏み出しているのが、今の日本なのかもしれない。


(10/09/24)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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