大樹の陰に人は集まる





「寄らば大樹の陰」は、「甘え・無責任」な日本の大衆の行動様式を語る枕詞であるが、それは決して小役人やサラリーマンが、大組織にすがって気楽に生きようという時にのみ現れるモチベーションではない。誘蛾灯の元に虫が引き寄せられ、石の下には蟻やダンゴ虫が集まるように、「大樹」たり得るモノを見つけると、本能的に引き寄せられてしまうのが、日本の大衆の基本行動なのだ。

それがどうして生まれたのかは、「卵と鶏」になってしまうが、江戸時代の大家族共同体においてはぐくまれたメンタリティーであることは間違いない。レンガアーチや組体操ではないが、相互に支えあう構造というのは、その構成員が力を出さなくても、強固な安定感を発揮する。また、こういう構造においては、外から見るほどには、各構成員に負担がかかることはなく、けっこうだらだらしていても問題がない。

ある意味、この支えあい、悪くいえばもたれあいこそが、日本社会を日本社会たらしめている基本的な行動様式といえる。それは、自民党と社会党、文部省と日教組など、対立を装いながら、お互いにもたれあっている姿勢が制度の基本となっていた、55年体制において頂点に達する。社会制度の根底を、共同体的な「もたれあい」に置いたのが55年体制であり、だからこそそのスキームは強固で安定していた。

すなわち「寄らば大樹の陰」は、そもそも「良いコト・悪いコト」という判断の対象ではない。ましてや、意識的にズルをしようと思ってとっている行動でもない。アメリカ合衆国の歴史より長い、400年にわたる歴史の中で、日本人のメンタリティーの中に刻まれた本能なのだ。そういう意味では、その意識そのものを否定することは容易ではないし、それはそもそも意味がない。

社会生活をする中では、「本能」をムキ出しにしてはいけない場面もある。それをコントロールできるのが、人間が人間たる由縁である。そういう意味では、「寄らば大樹の陰」をやっていい状況と、やるべきではない状況をわきまえることが重要なのだ。言い方を変えれば、「寄らば大樹の陰」ができる立場の人と、できない立場の人があり、それをはきちがえなければいいのだ。

世界市場に打って出るためには、競争原理の中での優位性の確保がカギとなるため、いわゆるグローバル・スタンダードに従う必要がある。こういう場面では、「寄らば大樹の陰」的な行動は問題なしとはしない。そういうモチベーションでは、間違いなく競争優位に立つことができない。しかし、コミュニティーや家族といった領域では、生き方としては、決して否定されるものではない。

それが歴史的基盤を持つ以上、客観的に見ても、それなりの合理性を持っている状況は有り得る。いつもいっているように、全ての人が全ての局面で、「自立・自己責任」で行動する必要などない。「甘え・無責任」なヒトたちが、自分たちの「利権」を守るために、「自立・自己責任」なヒトたちの足を引っ張ることがなく、「寄らば大樹の陰」が通用するかどうかのTPOが守られればそれでいい。

つまり、「寄らば大樹の陰」に関して棲み分けができていれば、何ら問題ないのだ。問題は、その論理が通用しない世界にまで広げられてしまうところにある。この数年、短命内閣が続いている。安部首相、福田首相、麻生首相、鳩山首相。「首相は一年持たない」というのが、半ば常識化している。この問題が起きる理由も、まさに「寄らば大樹の陰」ではいけない状況で、「寄らば大樹の陰」志向が発揮されたところにある。

これらの首相は、全て自民党、民主党の代表選挙を経て、圧倒的な支持を得て選ばれ、与党の代表として首相になった。まさに、この代表選挙で票を集めたモチベーションが、「寄らば大樹の陰」だった。選挙を乗り切るには、勝ち馬に乗ることが望ましい。そうなると、みんながそういうイメージを持ちやすい候補に票が集まる。実際に首相の器かどうかは問題にはならない。あくまでも「大樹」イメージの勝負である。

しかし首相選びは、農村の集落での代表者選びではない。議員や党員は、自らの責任において、代表者を選ばなくてはいけない立場なのだ。それをはきちがえて、「寄らば大樹の陰」的発想で乗り切ろうとする。これでは、選ばれた代表者も責任ある存在とはいえなくなる。そういう意味では、結局「勝ち馬感」で選ばれてしまった管首相も同じである。そういうことなら、選挙より、責任あるヒトたちが密室で談合して選んだ方が、よほど的確な人材が選ばれるだろう。実は、そこまで含めて「日本的システム」として完結していたはずなのだが。


(10/10/08)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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