「頑張る」だけでいいの?





オリンピックやワールドカップなど、白熱する試合では、観客は「ガンバレ・ニッポン」と応援する。ファンのがんばれという声援には、熱いモノがある。サポーターの応援も含めて、イベントとしての試合は盛り上がる。海外のクラブチームでも、ホームとアウェイでは勝率が有意に違う。そういう意味では、「頑張れ」というコトバは、選手を力づけ、ファンを一つにする上で、大きな役割がある。

さて、問題は選手のインタビューである。しばしば「頑張ります、応援してください」というメッセージが聞かれるが、これには非常に違和感がある。選手がやらなくてはいけないのは、「頑張ること」ではなく「試合に勝つこと」だ。だから選手のコミットメントとしては、「勝ちますから、応援してください」でなくてはおかしい。ところが日本のスポーツ界をめぐる状況は、「頑張ります」という返事になんの疑問も抱かないのだ。

選手とファンの関係を考えると、ファンからのメッセージとして「頑張ってね」はあっても、選手自身が「頑張ります」はありえない。頑張ることは、あくまでも勝つこと、成功することの手段である。「頑張ること」自体は、決して最終目的ではない。しかし、それが違和感なく罷り通ってしまうのが、日本という国である。それは、「頑張ること」に限らず、手段を目的化することに、何の疑問も抱かない常習犯だからだ。

たとえば、かつてバブルの頃メセナ活動と呼ばれてブームとなり、最近ではCSRなどと呼ばれ、再び脚光を浴びつつある、文化事業やチャリティー事業を考えてみよう。それらの事業には、「社会貢献」という大きな目的があるはずだ。だからその事業が社会に貢献しなくなったら、やる意味はない。しかし「貢献」というのは、客観的・定量的に測定しにくい。おいおい、やること自体が目的化しがちである。こうなると、使命を失ってもヤメられなくなる。

職人的な感覚でいえば、手を動かすこと、汗をかくことは、とても楽しい。目的が曖昧でも、甚だしきはなくても、それをやっていること自体が楽しいのだ。また悪いことに、日本人には、こういう職人的感覚の持ち主がとても多い。こうなると、手段を目的化することで、常に手を動かし汗をかければ、それだけで幸せになってしまう。みんながみんなそうだけに、手段の目的化に対するチェック機構も極めて弱い。

まさに、「みんなでやれば恐くない」の世界。かくして、ひとたび恒例化したモノは、即手段の目的化が起こることになる。そもそも最初にあったはずの理念など、どこへやら。あとはひたすら、現世利益追求に走ることになる。のこういう土壌があるから、利権バラマキの道路工事とか、天下り先確保のための公益法人づくりとか、官僚の権益拡大の手段が、許されてしまうのだ。

頑張って楽しいのは、「ごっこ」である。勝負ではない。勝負は勝ってナンボなのだ。「頑張ります」というヒトは、頑張って惜しい勝負に持ち込んだなら、負けてもくやしくないのだろうか。頑張るだけでは許さない、結果を出さなくては評価しないようにしない限り、いつまでたっても勝てない。日本のスポーツ選手が、グローバルな試合で勝負弱いのは、このメンタリティーの問題も大きい。

「ごっこ」は「ごっこ」で構わない。それはそれで楽しんでいただければいい。アマチュアの親睦試合や草野球の試合が、一概に悪いとはいわない。誰に対しても、どんな場合でも真剣勝負を強要しようというのではない。しかし、オリンピックのメダルの数に一喜一憂するのなら、「勝ちに行く」アスリートを生み出す土壌を作らなくてはならない。

そのためには、そういう選手に対しては、「頑張る」ことを評価しない風土を作ることがなにより重要である。世界に通用する選手は、「頑張る」選手ではない。「勝ちに行き」、実際に勝てる選手である。こういう気風が生まれない限り、日本のスポーツ界はガラパゴス化をまぬがない。もちろん、みんながみんな「勝ちに行く」必要はない。これもまた、「勝ちに行く」選手の足を引っ張ったり、「頑張る」だけで許したりしなければいいだけのことだ。


(10/10/15)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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