「勝ちっぷり」のよさ





経済活動は、ある種のゲームである。そのゲームがプレイヤーたちにとって楽しいものとなるためには、勝ちっぷりのよさ、負けっぷりのよさが問われる。勝っているからといって、相手を身ぐるみはいだのでは、次からゲームをしてくれる相手はいなくなってしまう。勝ちの現在価値を最大にするには、一回のゲームだけ大勝してもダメで、相手がやる気を失わない限界で勝ち続け、未来永劫勝ちゲームを続けられることがカギになる。

負けっぷりのよさも、同様に大事だ。負ければ負けるほど熱くなり、見境がなくなるタイプの人は、いったん負け出すと、「人間ヤメますか」状態になるまで、抜けられなくなる。依存症タイプのヒトは、いったん負けだすと、あとは破滅しか待っていない。どちらにしろ、目先の一回のゲームだけではなく、将来もゲームが長く続くことを前提に、全体最適を実現することが大事なのだ。

昨今、「サステナビリティー」という概念が重要になっている。ともすると日本では、サステナビリティーというと、エコロジーとかCSRとか、倫理的なものを考えがちだ。しかしアメリカでは、決して倫理面だけでなく、利益の最大化という実利的な面でも、極めて意味がある考えかたとされている。そういう視点からみれば、どちらかというと、「勝ちっぷり」の方が重要ということになる。

アメリカで、金融ファンドの暴走が問題視されているのも、実業とは全く違うタイムスパンで、収益の極大化を狙うからである。とにかく、後先考えずに、今稼げるだけ稼ぐ。この議論が飛躍すると、新古典派的な市場原理・競争原理が悪いという話になってしまう。しかし、市場原理が悪いのではなく、金融ファンドの「勝ちっぷりの悪さ」が問題なのだ。勝ちっぷりの悪さは、人間の業である。メカニズムの問題ではない。

最近になって、行動経済学などのように、人間の非合理性を前提とする経済理論も出てきたが、基本的に学問においては、人間が合理的な行動をすることを前提としている。しかし、現実の人間はそんなモノではない。そもそも人間が合理的な判断をするのなら、ギャンブルは成り立たない。理詰めで考えればギャンブルは絶対に間尺に合わない。しかし、合理的には理解できない、高いリスク指向性を持つ人達がいるからこそ、ギャンブルは繁盛する。

こういうヒトたちにとっては、アブなければアブないほど、アヤしければアヤしいほど、魅力的に映る。真っ当なヒトなら恐くて近寄れないような雰囲気ほど、彼らにとっては心惹かれる存在である。まるで誘蛾灯に集まってくる虫のように、リスキーなものに吸い寄せられてくる。合理性とは、真逆の判断である。しかし、これもまた人間の人間たる所以である。合理的なヒトたちばかりの世界など、考えてみただけで味気なく住みにくそうではないか。こういうところがあるからこそ、人間は機械とは違うのだ。

ある意味、元々合理的でない人間を合理的存在とみなして理論構築をしてきた、経済学の持つ限界がここにある。ニュートン物理学が「摩擦=0」を前提として理論構築したように、経済のメカニズムを解明するための理論構築としては、人間が合理的な行動をとると「仮定」することは、シンプルで明解な理論を組み立てる上では、大いに意味があることだ。だが、それは理論構築のための手段である。実際の機械の設計では、摩擦の問題が極めて大きな課題となるように、実際の経済活動が理論の通り動くワケではない。

もし、経済活動を行う人間が合理的存在なら、勝ちっぷりも、負けっぷりもいいはずだ。合理的存在は、常に全体最適を目指し、実現するからだ。しかし、生身の人間は決してそうではない。長期的・戦略的なビジョンを実現するために、短期的な目先の欲望を押えることができる人間は限られている。当然、マーケットのプレイヤーの多くも、目先の利益に振り回されてしまう。だからこそ、市場の暴走が起こるのだ。

市場原理の裏には、通常の人間感情とは違う、合理的な判断があることが必須である。経済人は、ドロドロした生身の感情的人間でなく、合理的に行動し、いい勝ちっぷり、負けっぷりをする、「経済的人間」にならなくてはいけない。合理的判断が、利益を生み続け、成長を続けられるという意味での「サステナビリティー」を生みだすのだ。自由競争の「神の見えざる手」は自然状態で得られるモノではなく、努力して初めて実現するモノであることを忘れてはならない。


(10/11/12)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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