「脱・企業」の時代





起業家のモチベーションは、ベンチャー経営者とは違う。ベンチャー経営者にとっては、究極の目標は、上場して自分が立ち上げた企業を高く売りぬき、一攫千金を狙うことである。しかし、起業家は違う。最終的に巨万の富を手に入れるヒトもいるが、それはあくまでも結果論である。「金儲けをしたい」より、「自分のアイディアを実現したい」ほうが先に立つのが起業家だ。

ベンチャー経営者は現実主義者だが、起業家はヴィジョナリストである。金が基点ではなく、夢が基点なのだ。だから起業家は、自分に投資してくれる出資者を必要とする。自分の理想を実現するために必要な資金を調達することが、夢を現実にするカギであると同時に、最大のネックでもあるからだ。金が金を生むことを目的とするベンチャー経営者は、どちらかというと、出資者の方に近いモチベーションだ。

さて起業家は、金を出す人をどうやって見つけるか。今やマネーマーケットは、グローバル化している。世界中に金が有り余っており、投資先を血眼になって探している状態だ。その中には、ハイリスク・ハイリターンを狙うマネーも多い。日本の起業家であっても、資金源は、なにも日本の中で探す必要はない。より有利に投資を呼び込むスキームさえ作れば、資金の調達は決して難しくない。

逆に、日本の金融企業や機関投資家は、組織でしか動けないので、起業家のアイディアを評価する手立てを持っていない。なにも、わざわざこういう連中から資金を出してもらう必要などない。それなら、たとえば中国の金持ちにでも出資してもらえばいい。ハイリスク・ハイリターンでも、自己責任で投資する投資家は、世界には五万といる。チャンスをつかむには、機動力のあるグローバルなマネーを取り込むことが一番だ。

起業家が、個人で動ける時代になったのだ。グローバル経済の時代、何も日本だけが特殊なワケではない。日本国内の利権にすがろうと思うと、日本の特殊性をことさら強調することになる。そういう指向を持たないのなら、日本国内のしがらみに囚われる必要性などない。「利権にすがりたいから、前例を踏襲する」というのならまだわかるが、そうでないのに、前例や慣習に縛られる必要などどこにもない。

だから、企業のあり方も変わる。「寄らば大樹の陰」を期待するから、デカい組織に寄りかかるべく、大企業や官庁に就職する。その妥当性はさておき、「甘え・無責任」な方々の選択肢としては、それなりの合理性があることも確かだ。そういう「目的」があるのなら、企業への就職を希望することもわからないではない。事実、多くの就活中の学生の選択基準はそこにある。もっとも、あまりいい生きかたではないことも確かだが。

しかし、やりたい仕事があるから企業に入るというのは、もはやあまり賢い選択とはいえない。アイディアのあるヒトは、なにも企業の中でしか、そのアイディアを実現できないワケではない。自分でやりたいことがあれば、自分で始める。それが、起業家スタイルだ。「何かやりたいことがあるから、企業へ就職する」というスタイルは、もはや日本ではありえない。それは20世紀までのやり方だ。

パトロンさえ見つけて、金を集めれば、やりたいことができる。仕事とは、組織でやる時代ではなく、自分でやる時代になった。それが、21世紀のグローバルスタンダードである。大企業の優位性は、社会全体が資金不足で、資金調達が難しかった時代のものだ。そういう状況下では、大企業の信用力と、スケールメリットを生かしたリスクヘッジ力は、資金獲得に大いに役立った。

そもそも組織でこなすやり方は、人材の層も薄く、資本の蓄積も不充分なだけでなく、国の信用度も低い、開発途上国向きのスタイルである。成熟国には、組織はいらない。能力がある人間さえいれば、グローバルには、金を出資してくれるヒトはいるし、手足になってくれるヒトたちもいる。企業や組織でなくては事業ができなかった時代は、秀才がもてはやされた。だかそれも、リソースが常に不足している開発途上国的な発想である。

幸い現代の日本は、高度成長期の成果として、大企業や大組織に所属しなくても、それなりに文化的で、それなりに充実した生活が送れるぐらいの社会インフラがすでにある。それで幸せになれるヒトたちは、これ以上の利権を求めなくても、まったりと人生を楽しむことができる。起業家精神にあふれるヒトたちは、企業に属さなくても夢を実現できる。大企業が必要なヒトなど、どこにもいない。今や、会社主義の幻想から自由になる時が来たのだ。


(10/12/03)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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