責任のありか





菅首相の支持率が低迷している。一言でその理由をいえば、首相としての能力に欠ける、首相の器ではない、ということになる。よく考えると、それは菅氏の「天性」の資質の問題であり、首相になってからの実績が問われているワケではない。それならば、民主党代表選の時でも、菅さんが首相としての能力があるのか、首相の器かどうかについては、わかっていたはずだ。

それにもかかわらず、民主党は菅さんを代表として選んだ。その責任は大きい。菅さんに能力がないのは、あくまでも前提条件である。資格がある以上、立候補したければ立候補できるというのは、民主主義下における選挙の基本だ。それは、選挙というプロセスを踏むところでフィルタリングがかかり、投票するヒトたちが「選ぶ」ことで、適切でない候補は選ばれないメカニズムになっているからだ。

ということは、器にない人を選んでしまったという事実は、選んだヒトたちの上に重くのしかかる。通常の議員の選挙のように、一般の人々による投票であるなら、ある意味、人気投票になってしまうのも仕方がない。今の50代以下の生活者は、あらゆる判断を、ロジカルなプロセスではなく、「好き・嫌い」とか「楽しいか」「面白いか」という基準で行っている。そうである以上、こと選挙についてだけ、理性的な判断を求めるというのも、酷であろう。

しかし代表選は、国政に携わる国会議員や、しばしば地方の政治と密接に関連する党員によって行われるモノである。一般のヒトとちがい、ある意味「政治のプロ」である人たちだ。それなら、政治的に正しい判断とはどういうものかを、身を持って示さなくてはならないだろう。だが、現実はそうではなく、不適切な選択をしてしまった。菅首相に対する「NO」は、菅さん個人に対するものではなく、民主党そのものに対するものなのだ。

ではなぜ、代表選で菅さんに投票したのだろうか。その理由は、大きく三つに分けられる。一つは、元々菅さんの支持者だった人たちだ。これは「お仲間」なので、世の中がどう動こうと支持は変わらない。だが、その数は限られている。次は、「反小沢」な人たちだ。いわゆる「敵の敵は味方」というヤツである。小沢さんの政治ポリシーは、日本の政治家には珍しく明確な分、支持者と反対者がはっきりする。

したがって、自由党の当時から、調査をすると一定数の熱烈なサポーターがいる。それは反面、顔も見たくないという「アンチ小沢派」を生むことになる。これも、民主党内にはそれなりにいるワケだが、「お仲間」と「アンチ小沢」を糾合しただけでは、過半数は取れない。過半数を制したのは、三つ目の「勝ち馬に乗る」人たちの支持によるところが大きい。だから、菅首相を誕生させた政治的責任も、この「勝ち馬に乗る」人たちにある。

この人たちは、誰が代表になるのが日本の政治としてふさわしいか(前二者は、積極的理由とはいえないものの、少なくとも自分たちの求める政治のあり方を前提にしていることは確かだ)という視点で、菅さんを選んだのではない。党内力学として、どっちが代表になり首相になった方が、自分にとって得か、という基準でしか判断していない。だから、ご利益がありそうな気がする菅さんを選んだのだ。

こうやって見て行くと、自民党、民主党を問わず、短命内閣が続いている理由も明白だ。どちらの党でも代表選においては、公の代表である政治家として、国民なり国なりを考えて判断するのではなく、自分個人の政治家人生として、誰を選ぶのが得かという視点でしか、投票する相手を選んでいないからだ。得に見えるかどうかは、ある種の「気分」である以上、風向きが変われば、判断はコロっと変わってしまう。

根が構造的問題であるからには、ちょっとやそっとで改善する見込みはない。ならば、対策は二つ。一つは、こういう構造を前提として、極めて実力のある政治家が、本来の政策論ではなく、「おいしそうな気分」をウマく演出して票を集めること。もう一つは、政治家ではなく、直接国民が投票するようにして、国民に責任を押し付けること。このどちらかしかない。でも、それに近いことを指向したヒトがいましたね。なるほど、最近にしては、長期政権を執っていましたが。


(10/12/10)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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