空気の正体





少し前の流行語だが、「KY=空気が読めない」というのが流行った。「KY」なヤツは、ウザい、うっとうしい存在である。そういうヤツがいると、せっかくの楽しい雰囲気が台無しになる。こういう局面で使われる言葉だ。ということは、その場にいる大部分のヒトにとっては、空気は読めてあたりまえのものであり、「KY]くんは、そんなみんなにとってわかりきったことがわからないから、疎ましがられるのだ。

日本社会を特徴付ける、この「空気」については、山本七平氏をはじめ、戦後の知識人や有識者がいろいろ論じてきた。しかし、そのどれをとっても、今ひとつすっきりした説明になっていない。それは、空気を作っているのは庶民層である一方、論じているのが戦後のインテリ層だからだ。庶民感覚からすれば、知識層という存在自体が、ちょっとズレた存在、空気が読めない存在なのだ。

これでは、空気とは何かを的確に論じることはできない。しかし、この構図を捉えれば、空気の正体を捉えることはたやすくなる。少なくとも、空気とは、大衆レベルでは共有されているが、知識層からは見えなかったり、それが共有されているとは思いたくないモノなのだ。こう考えると、その正体が明らかになってくる。空気とはズバり、大衆の過半数が、「そうである」と思っていたり、「そうなって欲しい」と願っていたりすることなのだ。

ほとんど皆、誰もがそう思っている。しかし、そうであるからこそ、誰もあえて口にはしない。いわば、形式知化こそされていないものの、歴然と存在しているコンセンサスが空気なのだ。スポーツ試合の応援で、皆、口では「行け!!頑張れ!!」といっているものの、誰の目にも敗色が濃いような状況。大部分のヒトは、心の中では「もうダメだ」と思っている。こうなると「空気」としては、すでに負けである。

サイレンス・マジョリティーというコトバがあるが、口には出さなくても、民主主義の世の中である以上、過半数がある方向性で固まってしまえば、全体はそっちへ動く。知識人は、自分が社会を動かす影響力を持っている、と過信しがちなので、ヴォリュームゾーンの「数の力」を軽視しがちだ。しかし、皆の心の中の方向性、すなわち「空気」が決まってしまえば、それを動かすことは、もはや不可能なのだ。

ミステリー映画では、あえて伏線がモロバレになっている作品も多い。そういう作品を上映している時、大部分の観客は誰が犯人かわかっているし、作品の演出も、それがわかっていることが前提になっている。しかし、ストーリーの中で、真犯人の種明かしをしたワケではない。まさに、ここで観客に共有されている「真犯人像」は、「空気」の典型ということになる。

歴史的に言えば、江戸時代の町人のカルチャーとして、支配者としての武士層はいろいろ言ってくるものの、黙って面従腹背していれば、数の力で、大局的には自分たちの思い通りの方向に動いてゆく、という「生活の知恵」があった。これが、コトバには空気で対抗する、という気風を生んだのだろう。空気が強いのは、実体がないのではなく、実体は歴然としてあるにもかかわらず、言語化されてないという点だ。

人類の歴史上では、あくまでも意識が先にあり、それを伝達したり記録したりするために言語が生まれた。言葉だけあっても、それの前提になる意識がなければ、文字通り「絵に描いた餅」であり、空虚な存在でしかない。しかし、意識があるなら、それが言語化されていなくても、存在感や影響力を持ちうる。空気は、論理的分析からは見えにくいというだけで、実際に存在するものとして捉えなくてはならない。

ましてや、現代の日本は、ヴォリュームゾーンの人たちが、「自分たちの今」に満足し、自信を持って生きている、超大衆社会である。その人たちの信念を、言語化されていないからといって、否定し、捻じ曲げることなど不可能である。だが、空気を読めば、彼ら・彼女らは間違いなくついてくる。これからの日本社会での成功の鍵は、まさにこの「空気」を読み取り、それを先取りして実現することにある。「空気」は、間違いなくある。それに気がつかないヤツこそ、「空気が読めない」のだ。


(10/12/17)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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