最近の若いもの





昨今、いろいろなところで、「若者に覇気がない」「若者に元気がない」、はたまた「最近の新入社員は行動的でない」とか、若者の行動様式が批判されることが多い。何かに積極的にチャレンジしない若者が増えているし、仲間うちだけでかたまり、狭い行動半径の中でまったりと過ごすことを好むことも確かだ。しかし、そのような意識や行動は、批判すべきことなのだろうか。否定すべき「問題」なのだろうか。

「ゆとり世代」になってから、若手社員が海外勤務を好まなくなった、といわれるが、これは別に今に始まったことではない。海外が憧れだったのは高度成長期の団塊世代の新入社員までで、ぼくらが新入社員の頃は、海外を希望するヒトもいたものの、一般的には海外は遊びに行くところであり、「海外で仕事は面倒」というヤツのほうが、数的にはすでに多かった。当時はバブルに向かう時代であり、苦労が多い海外勤務よりは、バブル景気に浮かれる国内のほうが、よほど楽で楽しく、役得も多かった。

「最近の若い者は」というコトバは、人類の歴史と同じぐらい古くから語られているという。人間社会は「開いた系」であり、常に変化し続けるものである以上、今の若者と、何十年か前の若者と、意識や行動は違って当たり前である。旧来の価値観とは違うが、だからいけないとか悪いとかいうものではない。それどころか、歴史を振り返って「進歩」と捉えられる事象も、リアルタイムでは必ずしも肯定的に捉えられるものではない。

今の若者は、高度成長期に若者だった人々とは、メンタリティーが違う。それは、ある意味当たり前だ。貧しい時代の日本に生まれ育った人たちは、目の前に高度成長というニンジンをぶる下げられたら、思わず馬車馬のように走り出してしまう。20世紀後半の日本を規定していたのは、そういう価値観なのだ。今そういう価値観を持っているヒトがいたとしても、中国ならイザ知らず、日本には活躍できる場はほとんどない。

かつての「若者たち」がそうだったように、若者は決してバカじゃない。自分たちの道は、本人自身が決めるべきであって、回りの、特にロートルになった大人たちが、どうこう指図すべきものではない。というより、本人たちが、それがいいと思って選択した結果が現実なのだ。若者たち自身が、彼ら・彼女らの現状に不満を持っているならばいざしらず、現実はその逆なのだ。

元気がなく見えようが、内向的に見えようが、それが当人にとってのベストチョイスである以上、否定すべきものではない。それより、素直に事実は事実として受け入れるべきである。事実を前提として、これからの世の中をどう組み立ててゆくか、その中で年上の世代は、どういうサポートができるか。そういう発想をする必要がある。これこそ、マーケティングの基本であり、新たなチャンスを生み出すカギである。

80年代から日本の課題といわれてきたことに、内需の拡大がある。国内消費市場の活性化は、ある程度は実現したが、決して成功したとはいえず、未だに内需拡大が叫ばれているのが現状だ。これは経済発展を、国内市場の構造改革ではなく、常に対外発展に依存してきた「ツケ」である。海外で生産・販売し、in-outだけでなく、out-outが主力になってくる。グローバル化すれば、企業の収益は上がるが、それで国内市場が活性化し、内需が拡大するワケではない。

グローバル企業の海外勤務の社員が増えるよりは、日がな一日、地元のショッピングセンターでまったり過ごす、ロードサイドのヤンちゃん一家が増えてくれた方が、日本経済に対する貢献は余程高い。ある意味、地元から出ない若者たちが増えることは、はじめて日本の消費市場が、内需中心に構造変化する可能性を秘めている。それは同時に、高度成長期的な製造業至上主義から脱皮し、大規模な産業構造の変化を引き起こす。

問題は、「元気のない若者」の存在ではない。改めるべきは、今の時代にオプティマイズした生きかたを選んでいる若者たちを、過去の高度成長期のステレオタイプや、テイク・オフしつづける発展途上の国の人々との比較でしか捉えられない、中高年層のアタマの固さである。ヒトは、自分の好きな生きかたで、楽しく暮らせることこそ、幸せなのだ。それを受け入れられないということは、逆にこれからの社会では受け入れられなくなることを意味する。その重みを受け止めるべきだ。


(10/12/24)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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