あるがままに





近代社会の問題点は、人々が、「今の自分であること」に満足できなくなった点である。産業革命以降の社会では、金だろうと名誉だろうと、欲望を追い求めることが、社会全体のモチベーションとなり、成長の牽引車となるとして、是認されてきた。その結果生まれてきたのが、環境破壊や環境汚染であり、差別やネタみ、そしてそれが拡大した戦争である。それでもなお、人類は欲望を捨てることがない。

個人レベルで考えれば、これは「あるがままの自分を受け入れられない」ということになる。社会と同様に、現状に満足しないことが、努力目標になったり、成功の動機付けになったりするとして、肯定的に捉えられてきた。これも、それまでの人類の歴史においては見られなかった現象である。努力の結果成功した偉人伝などは、さしずめ近代社会の申し子といえよう。

同時に、近代の人間は、周囲に対しても「あるがまま」を受け入れにくくなってきた。周囲の人間も、自分と同じように「あるがままの自分を受け入れられない」人なのかどうかを問うことなく、「本来こうあるべき」という筋論を傘に、目指すべき姿を強要する。こんな行為は、おせっかい以外のなにものでもないのだが、教育や指導の美名の元に、屁理屈と共に正当化されてしまう。

貧困状態を脱するフェーズでは、確かに努力し成長することは、自助努力を実現する上で、大きな力となる。しかしそれ以外の多くの状況においては、現状を否定したところで、今よりよくなる保障はどこにもない。特に、ある程度の富が人々の間に行き渡ると、現状の否定は、下手をすると現状の維持すら難しくするリスクを伴うことになる。だが、人々は更なる夢を描き、欲望を追い続ける。

もしかすると、人間の欲望には際限がなく、一旦欲望の追求に入り込んでしまったなら、そこから抜け出すことは極めて難しいのかもしれない。「猿のセンズリ」ということわざがあるが、まさにそれである。人類には、その性として、破滅するまで欲望を追及してしまう運命、言い換えれば、欲望があるがゆえの自滅に向かうロードマップが織り込まれているのだ。

だからこそ、この業から逃れて、少しでも長く人類が生きながらえるべく、人類の歴史の中ではいろいろな知恵が生まれた。宗教を発明することにより、ストイックになり、欲望を押えようとした。また、あまりに魅力的な刺激に対しては、「タブー」を作ることで、そこに足を踏み入れることがないようにした。これらは、欲望の赴くまま、身を滅ぼさないためのセーフネットである。

自己撞着めいた言いかたになるが、最初からあるがままの自分を受け入れ、あるがままの周囲も受け入れ、それにあえて棹をささず、流れのままに生きていれば、そもそもそういうセーフネットは必要ない。宗教が目指す最高の精神状態は、あらゆる欲望や煩悩から解脱した状態である。ある意味で、あるがままを受け入れられるというのは、そのような状態に近い。

全ての状況が、神様なり、仏様なり、阿弥陀様なりの「思し召し」である以上、現状を否定し、欲望を追い求めて生きようとすることは、そのような唯一最高な存在の意思にそむくことになる。しかし、絶対存在を前提とする以上、キリスト教とイスラム教という一神教同士の対立のように、絶対存在の唯一性が、今度はいらぬ対立を生み出す原因となってしまう。

そのためには、他人との比較ではなく、自分の内面だけをリファレンスとすることがカギになる。みんながみんな、自分自身を見つめ、その中に自分のいいところを発見し、それを信じるようになれば、おのずと解決する。これには、失うものは何もない。今と変わらない自分がいるだけだからだ。変わるところは、あるかどうかわからない未来の取り分を、勝手に想像してワクワクしなくなるだけ。どうせこれは「取らぬ狸の皮算用」ではないか。


(11/01/07)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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