貧者のくびき





菅首相が、首相の器にないことは、いまや誰の目にも明らかだ。しかし、当人は逆に開き直って、ますます「首相の座」にしがみつこうとする。最近は小粒な首相が多いといわれるが、こんなに早く醜態をさらす人も珍しい。確かに、政策がない、リーダーシップがないなど、その問題点を指摘するコトは容易だが、器でないとみなされるには、それなりに理由がある。要は、「貧乏クサい」のだ。

「清貧」との違いは、欲がギラギラ照りかえっているところにある。まさに、貧すれば鈍する。他人だけがいい思いをし、自分を出し抜いていくのではないかという、猜疑心のかたまりとなり、妬んだり恨んだり、足を引っ張り合うことになる。「金持ち喧嘩せず」の裏返しで、こういう黒く淀んだ心が、差別意識を生み出す。欲の渦が、全てをバッドサイクルの方に貶めてゆく。

かつての「革新政党」や市民運動家などには、なぜかこういう「貧乏クサい」連中が多かった。スローガンとしての「平等」を訴えていても、その内実は、「他人だけがいい思いをしない」ようにし、出し抜かないように見張っていることである。正論を声高に語れば語るほど、実は「俺にもおいしい汁を吸わせろ」というホンネが、衣の下の鎧のごとく見え隠れしてしまう。

ここでいう貧しさとは、資産やキャッシュフローがどれだけあるか、という絶対額の問題ではない。「足るを知る」ことができるかどうかである。「知足」ができなければ、どんなに資産を得たとしても、心はいつも貧しいままである。もちろん、お金の多寡と「知足」の間には、それなりの正の相関があることも確かだが、それが全てではない。それは「知足」とは、育ちの問題だからだ。

人格形成期に貧しい暮らしをしいられたヒトは、しばしばその貧しさの刷り込みがトラウマとなる。「もっと豊かになれば、もう少し幸せになれる」という思い込みが強く、どこまでいっても「より上」を目指して成りあがろうとする。その結果、常に「隣の芝が青く」見え、ネタみ、ヒガみを持つことになる。客観的に見て、もう充分豊かになっていても、当人は貧しい頃の悪夢が消えず、決して満たされることはない。

現代日本の問題は、この国はもう充分に豊かになっているにもかかわらず、政治家や経営者などの多くが、いまだに、この「貧しい頃の刷り込み」を抱え込んだ人たちにより構成されているところにある。20世紀後半の50年間で、日本は、社会インフラも制度基盤も、充分すぎるくらいに充実した。もはや、日本は貧しさから抜け出すために成長を必要とするような国ではない。

貧しさから脱したなら、あとは、さらなる成長を求める必要はない。その成果を維持できるだけの安定的な経済基盤があれば、それで充分に廻ってゆく。それ以上のモノを求めても、環境を破壊し、エネルギーを浪費するだけだ。サステナビリティー的視点からすれば、そんな成長主義は、百害あって一益なし。人類の滅亡を早めるだけだ。にもかかわらず、発想の転換ができていないのが、日本の不幸の要因なのだ。

二世政治家のような「世襲」は、悪く言われることが多い。確かに、中には「バカ息子」に跡を継がせるような人もいるから、それなりの原因もあるだろう。しかし、この「知足」という面から見れば、三代目、四代目といった世襲は、積極的に評価できる。世襲で跡を継ぐ人材なら、少なくとも「貧しい頃の刷り込み」はないし、貧者のトラウマにさいなまれる心配もない。この点においては、時代の要請に合っている。

実は、日本人全体が、豊かになってからの二代目、三代目になっていることを忘れれはいけない。すでに日本は、豊かさを世襲している国なのだ。そういう社会のシステムが、貧しかった頃のコンプレックスの塊のようなものであって良いワケがない。貧しい時代を知っている人、貧しい時代の空気が刷り込まれている人は、早くご引退願おう。日本を活性化する早道は、成長ではなく、心の貧しい人を一掃することにある。


(11/01/14)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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