メディア・リテラシーを論じるヒトたち





メディア・リテラシー論を論じたがる人、それも名の知れた学識者・有識者ほど、上から目線でモノを語りたがる。あたかも「正しい」ものがあり、それを「私だけが知っている」から「教えてやる」というように。大衆より、自分の方が知性が高く、物事がわかっているという論調。高度な理論体系を持つ自然科学系の学問とかなら、そういう面もありがちだが、大衆社会のメディア論については、この構図は成り立たない。

情報行動やメディアの利用、コンテンツ消費のあり方は、自我が形成される時代のメディア環境による「刷り込み」の影響が大きい。そして日本においては、この50年ほど情報環境は大きく変化した。だから、情報リテラシーは、世代によって大きく違う。たとえば、テレビから流れる情報をどう受け止めるかは、物心ついてからテレビに接した60代と、生まれたときからテレビがあった40代では全く違う。これは、調査すればすぐわかることだ。

「振り込め詐欺」が成り立つのも、この「刷り込み」の影響に他ならない。振り込め詐欺といえば、その被害者は60代以上の女性に限られる。この人達の多くは、子供時代、家に電話がない状態で育った。おまけに、専業主婦が増えた世代なので、仕事の経験も少ない。電話がかかってくるのは、何か緊急の用事があるとき、と思い込んでいる。こうなれば、ベルが鳴るだけでパニクってしまう。あとは、おして知るべし。

有識者のメディア観の問題は、「自分達のような利用法」や「自分達が理想とするあり方」こそが、正しいメディアのありかた、使いかただと思い込んでいる点にある。この思い込みが強いため、バイアスかかってしまい、あるがままの実態が見えなくなってしまう。よしんば、実態をそれなりに把握できたとしても、それが自分の理想と違うとして、批判の対象としてしか捉えられない。

メディアやコンテンツが、大いに利用されているということは、人々からそれだけ支持されているコトを意味する。今の日本の生活者は、自分がイヤなこと、キライなことは、強制されようが何されようが、絶対にやらない。何かをやっているとするなら、それが、楽しくて好きだから、やっているのだ。ヒットしているということは、それだけ多くの人が、それを好むと共に、それに楽しさを感じていることを意味する。

就活が激しくなり、大企業から内定をもらえないとあせっている学生がたくさんいる反面、地方の中小企業は、人が足りないばかりか、募集しても応募がない状況にある。学生は、「仕事」をしたい、「就職したい」というのではない。楽しい企業、好きな企業に入りたいだけなのだ。地方の中小企業は、楽しくないし、好きではない。だから、就職の口がいくらあっても、対象外になってしまうのだ。

一般の生活者からみれば、有識者の論じるメディアなど、自分とは関係ない「よそゆき」の姿である。そういうメディアや、そういうコンテンツ利用もあるかもしれないが、私にとっては興味ない、ということになる。生活者のレベルで普及するには、いわば「ケ」のメディアになることが前提だ。そして、「ケ」になったその姿こそが、そのメディアの「真価」である。大衆社会におけるメディアとはそういうものなのだ。

Webをインタラクティブに使う人は、日本では少数派である。そもそも、自ら発信する情報を持ち、それが他人から見て何らかの意味を持つコトができるような人は、そう多くはない。これは、そういう能力を持つ人が、どこまでいっても持たない人よりは少ないことによる。プロ野球選手になれる能力を持った人は、プロチーム数がいくら増えようとも、プロ野球の観客になる人より少ないのと同じ理由だ。構造的問題として、少数派なのだ。

メディア・コンテンツユーザにおける「多数派」は、日本においては、そういう「コンテンツ」を暇潰しのネタとして楽しむ人たちだ。「普及する」ということは、そういう人たちの利用が進み、利用者の中心となることである。過去の事例からしても、こういう層をとりこめないと、日本では8桁のユーザーをつかむことはできない。そこまで普及したとき、中心になっているユーザーの利用法や利用実態こそが、そのメディアのあるべき姿なのだ。

日本では、Webサイトの中でも、長らくYahooの人気が高かった。それは、何か目的を持って検索しなくても、Yahooサイトの中で楽しく暇潰しができる構造になっていたからだ。欧米とは違い、検索機能こそ高いが、無味乾燥で目的意識がないと使えないGoogleが、今ひとつ盛り上がらなかったのも、そのためだ。しかし20代以下の若者は、「おバカ」とか「パンチラ」とか入れて映像を検索すれば、Googleが立派に暇潰しの道具になることに気がついた。

これにより、日本でもGoogleのシェアが高まってきた。それは、このように若い層では、Googleが暇潰しのネタになったからだ。決して、能動的に目的意識を持って検索する層が増えてきたワケではない。もっとも、当事者たる若者にとっては、暇潰しのおバカ映像を探すことも、立派に目的意識かもしれない。しかし、有識者の方々が想定するような、能動性・目的性ではないことは間違いない。

基本的に、大衆社会におけるメディアは、極めて民主的である。人々から支持されるメディア、コンテンツでなくては、そもそも見てもらえないし、影響力も持ち得ないからだ。ヤクザまがいの「拡販員」が押売りしていた新聞も、人々に恫喝が効かなくなり、購読をヤメる人が増えている。現代の生活者は、生活者なりに、高いレベルのメディア・リテラシーを持ち、それに基づいて、好きなメディア、面白いコンテンツを選んでいるのだ。

日本では一般に、学識者・有識者の人ほど、リベラル・進歩派を装うことが多い。特に、メディア・リテラシーについて語る方が、メディアやジャーナリズムを専門としている場合が多いので、その傾向は特に強い。にもかかわらず、人々が「民主的」に選んだ判断を頭ごなしに否定し、自分の価値観を一方的に押し付けようとする。こういう矛盾に満ちた行動をする人達の意見など、どうして聞くことができるだろうか。全くバカげた話だ。


(11/01/21)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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