会社社会の向こうに





現代の先進国では、人々の営みの多くが、官僚機構や会社といった「組織」をベースとして行うことが常識となっている。しかし、それは人類にとって、絶対的な真理ではない。あくまでも、近代産業社会特有の現象なのだ。それは、近代社会における組織が、産業社会特有の大量生産のためのスキームがベースとしていることが、如実に表している。

大量生産とは、一つの原型を大量に複製し、大量に販売することで、生産力を活かしたスケールメリットを発揮させることで、低価格でも大きな利益を得ようとする戦略である。開発過程こそ付加価値の生産を伴うものの、生産過程は効率の問題でしかない。そういう意味では、効果的な大量生産とは、同じものをさらに安く大量に作ることに他ならない。

大量生産とは、価値を生み出すプロセスではなく、いわば自己パクり、ダマしのテクニックなのだ。そして近代の組織とは、そのために最適化された組織である。そこでは、心もフトコロも「貧しい」人が持つ、成り上がろうとするモチベーションが利用されている。社員、顧客、株主。全てのステークホルダーが、三位一体で、貧しく卑しい心の持ち主が主流となったのが、近代産業社会なのだ。

その特徴は、ステークホルダーのみならず、構成員の間でも、相互に深いコミュニケーションがない点にある。相互に顔が見えないし、見なくていい。意図的にそうしているといったほうがいいかもしれない。このメンタリティーは、外に対しては団結して利権を守るものの、相互には疑心暗鬼の塊という、高級官僚の習性がなにより如実に表している。

結果的に、無責任なまま、勝手気ままに、各々が好きなことをやっても、お咎めなし。いつも論じているように、無責任なヒトたちが、心から無責任にふるまえるツールが、近代の「組織」でもある。無責任なヒトたちは、もとより個人としても、コミュニケーションを避けるし、顔を見せないようにしている。そういう意味では、相似形とも言える。

「甘え・無責任」な人による、「甘え・無責任」のための組織。このような組織は、もともと何かを生み出すものではない。法律上「法人」として、擬似人格を与えられているが、社会的存在としては似て非なるものである。人は、リスクを負って、価値を生み出すがゆえに人なのだ。人に生まれれば、即、一人前の人間というワケではないのと同じように、擬人的な人格が与えられるだけで、組織が機能するワケではない。

この悪循環を断つことが大事なのだ。本当にクリエイティビティーを発揮するためには、「個対個で展開する」こと、「オーナーがいる」こと、「ワンオフ・手作り」であることがカギになる。これらは完全に個人対個人のレベルなら、容易に成就できる。しかし、個人でできる作業には限界があり、ある程度以上の規模感のある仕事をするには、それなりの組織的対応も必要になる。

組織的にこれが成立する条件は、全てのステークホルダーの顔が互いに見え、互いにコミュニケーションできることにある。これは、小さな組織なら容易に実現可能だ。工房的な中小企業なら、成り立ちうるし、現実に機能している組織も多い。それは、組織がディスクローズされ、組織の中に「風除け」や「目隠し」になる逃げ場がないからだ。

大量生産による「浅く広く」から、高付加価値経営へのチェンジのカギは、ここにある。それほど「モノ作り」にコダわりたいのなら、このようなスキームチェンジが先決だ。個人工房や、高度な職人集団のような、「自立・自己責任」な組織。「モノ作り」の前に、組織作りが先決なのだ。日本のような成熟した社会には、テイクオフ期のような組織は似合わない。流れを変えたいのなら、ここから変えて行かなくてはならないのだ。


(11/01/28)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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