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年金制度の破綻が社会問題となって久しいが、よく考えてみれば、年金制度の根本的な考えかたに、すでに構造的な問題が含まれていることは、すぐにわかる。いろいろな民間金融機関が売り出している年金型の金融商品とは違い、日本の社会保障としての年金制度は、老後に備えて自らの稼ぎの一部を貯めておき、それを運用して増やすと共に、リタイア後にそれを使うという仕組みではない。

基本的には、その時代の現役層から集めた金を、その時代のリタイア層の年金として、自転車操業で配分してしまうシステムになっている。すなわち、制度設計自体が、右肩上がりの経済成長が永遠に続くと共に、労働人口も増大し続けるという、いわばバブル状態が未来永劫続くことを前提として構築されている。いかに高度成長期に設計されたものとはいえ、この能天気さは、当時から問題視されていたという。

そもそも、自分が稼いだ以上のものを、「天下の廻りもの」として、社会からもらってしまおうという発想に立ったシステムなのだ。ある意味ネズミ講と同じで、理性的に考えれば、短期的には成り立つように見えても、長期的には原資が廻らなくなることは明白だ。経済の規模拡大が続いても、それが発覚する時期が後ろ倒しになる、というだけのコトでしかなく、本質的な解決にはならない。

そういう意味では、俺のものは俺のもの、他人のものも俺のものという、かつての社会党や共産党のような「革新政党」や労働組合などのメンタリティーとよく似た、「社会主義的」な発想だ。どこかに、無尽蔵に金を生み出す打出の小槌があることを前提にした、極めて無責任な考えかただ。「一個人が甘い汁を吸っても、世の中に影響はない」と思っているのかもしれないが、その社会の全生産力にはキャップがある。

大企業や高所得者から税金をとって、所得の再配分をすれば良い、という幻想も、同じ構造を持っている。どんなに再配分をしたところで、おのずと上限はある。しかし、再配分を叫ぶ人に限って、欲の皮に限度がない。少しでも貰えれば、もっと欲しい、もっと欲しいとすぐなってしまう。たとえ上限値まで再配分が進んだとしても、その上限では満足できないコトは明白だ。

そもそも人間は、祖先から承けついた財産に、自ら稼いだものを加えた以上の資産を、持ちうるはずがない。もちろん「自ら稼ぐ」中には、他人から譲られたり、盗んだり奪ったりしたものも含まれる。倫理的な価値観はさておき、そこでは何らかのリスクとチャンスを活かしているからだ。しかし、誰もがタナボタ式に、それも社会から匿名でフィードバックしてもらえるというのは、あまりにご都合主義の幻想でしかない。

少なくとも泥棒は、見つかって袋叩きにあったり、警察に逮捕されたりというリスクを前提に、そのリスクテイキングをした上で、コトに及んでいる。腹をくくらなくては、犯罪の計画を立てても、実行は不可能だ。自ら、そういう意思決定をすることなく、ただ漫然と利権にありつこうをするのは、泥棒以下の根性といわざるを得ない。高度成長期の「社会主義者」など、このレベルなのだ。

それでも、済んでしまったことは仕方がない。かつては、そういう主張も許されたかもしれないが、それが成り立ったのは高度成長期のみということを、胸に念じなくてはならない。自らリスクを取り、自らのリスクで行動する。可能性は、この範囲でしか生まれない。自分は自分でしかないし、誰かからの分け前を期待することが間違っている。それが、「自立・自己責任」だ。もはや、社会の追い風に期待できるような世の中ではない。


(11/02/04)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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