おもしろい政治





2月6日に行われた、名古屋市長・名古屋市議会リコール・愛知県知事のトリプル選挙は、予想通り、河村氏の率いる地域政党「減税日本」の圧勝に終わった。既存の政治勢力からすると、あまり望ましくない結果なのかもしれないが、真の「民意」を踏まえるというか、マーケティング的な発想で状況を捉えれば、これは至って真っ当な結果だということができるだろう。

河村氏は、なぜ強いか。新聞を読むと、ポピュリズムだとか、小泉型劇場政治だとか、したり顔の批判的な解説が載っている、しかし、はっきりいって全く的を射ていない。このところ人々が「新聞など要らない」と思い、新聞の発行部数の減少に歯止めがかからないのは、こういう生活実感からかけ離れた、ピントのズレた論説を、上から目線で語ろうとするからだ。

そもそも、民意を捉えるのに理屈はいらない。人々は、理屈で考えて選挙しているワケではないからだ。ここでもすでに何度も分析しているように、今の日本人の過半数は、好きか嫌いか・楽しいか楽しくないかという基準でしか、モノを判断していない。政治の判断とて、全く同じ。選挙で投票する基準は、どの候補がいちばん「おもしろい」かだ。もっというと、選挙に行くかどうかも、おもしろいかどうかにかかっている。

おもしろくないモノには、いくら必要性を叫んでも、いくら義務化しても、テコでも動かない。逆に、それまで余り興味がなかったモノでも、おもしろくなると、急に人が集まりだす。去年のワールドカップでも、今回のアジア大会でも、勝ち進むとにわかに「サッカーのルールも知らないサッカーファン」が、雨後の竹の子のごとくわさわさとあふれ出すのも同じ理由だ。

さて、大相撲の八百長問題が巷をにぎわせている。これもまた、この政治の問題と同じルーツを持つ。新聞の論調は、これまたスジをはきちがえている。相撲協会の親方衆も、既得権益の利権にすがるがあまり、本質を見間違えている。ファンにとっては、ある程度の八百長というか、「裏駆引」があることは織り込み済みだ。あれだけの人数で、あれだけの日数、ガチンコの格闘技をやって、カラダが持つハズがない。

競馬だって、全部のレースで、全ての馬が勝ちに来ていると考える方が能天気だ。馬だって、体調もあるし体力にも限度がある。どのレースで勝ちに行くかという作戦を立て、そこに向かってペースを調整しなくては、馬も長くは生きられない。もっというと、プロレスが代表的だが、格闘技ファンは「駆引」を読むのが好きなのだ。ガチンコを見るより、駆引を楽しむ方が、余程知的な味わい方といえるだろう。

これも、ガチンコかどうかより、おもしろいかどうかが重要なのだ。はっきりいってしまえば、人々は「つまらないガチンコ」より、「おもしろい八百長」をみたいのだ。悪なのは、八百長やヤラセではなく、「おもしろくない」ことなのだ。おもしろくないモノには、存在意義はない。これは、実際に調査してみればすぐにわかる。

ガチンコがいいというのは、60代以上、団塊世代から上に限られる。その下は、若くなれば若くなるほど、「おもしろい八百長」をみたいという比率が高くなってくる。30代以下では、つまらないガチンコなど、誰も見向きもしなくなる。良いとか悪いとかいう倫理的な問題ではなく、これが今の日本社会の事実なのだ。事実と向き合い、事実を事実として認めない限り、何も前へは進まない。

世の中、全てがエンタテイメントなのだ。そう考えれば、すっきりするだろう。21世紀に入って以来、人気タレントであるには、お笑いができなくてはいけない、という理由はここにある。おもしろいのは、当たり前。居並ぶ「おもしろいモノ」の中で、我こそはいちばんおもしろいぞ、というレベルの競争なのだ。それについていけないような、「おもしろくない」人には、レッドカード。退場して、観客席でおとなしくしていてもらいたいものだ。


(11/02/11)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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