マーケティングの本質





インタラクティブ環境の大衆化とともに、BlogやSNSといったソーシャルメディアのマーケティングへの活用が、声高に語られるようになった。実は、10年以上前から、バイラルマーケティングとかWOMマーケティングとかいって、インタラクティブメディアによる口コミの伝播を、マーケティングに活用するという視点はあった。まあ、それが現実になるくらい、ツールとしてのインターネットが広まったということだろう。

もっとも、口コミとマーケティングの関係は、今に始まったことではない。ぼくが広告の仕事に関わるようになった1980年代から、大量生産・大量消費の破綻が叫ばれていたし、「口コミ・マーケティング」のような視点も登場していた。マーケティングのラスト・ワン・マイルというか、広告宣伝のような「告知」と、店頭のプロモーションを結ぶポイントは、フェイス・トゥー・フェイスのコミュニケーションによるところが大きい。

そういう意味では、何にでも横文字のバズワードをつけると、それだけでなにやら新しいもののように思ってしまう、マーケティング業界の悪いクセが、また出てしまっただけのコトである。そもそもインタラクティブメディアがらみではその傾向が強いのだが、決して新しい変化が起こるのではなく、近代産業社会から21世紀型の情報社会に進化することで、人類社会に伝統的な「原点がえり」がもたらされたと見るほうが正しいだろう。

そもそも、産業革命の目指した「少品種・大量生産・大量販売」のシステムは、決してユーザ・オリエンティッドではない。基本的には「プロダクト・アウト」のくびきから逃れられず、提供される製品は、使い手の希望ではなく、作り手の思い込みが基準となっている。それを修正する手段として、マス・マーケティングが生まれてきたワケだが、八方手を尽くしても、ある程度はユガんでしまうのはいたし方ないところだ。

ところが、人々が貧しく飢えている状況なら、「そこにある」だけで、ユーザの満足レベルは充分満たされてしまう。食うや食わずの状態では、腹が満たされることがなにより重要な問題であり、味とか質とかいったことを問うような状態にならない。大量生産のマジックも同じコトで、貧しくて、そもそもモノが手に入らなかったヒトたちを相手にする分には、お仕着せのプロダクト・アウトでも、充分満足し、喜んでもらえたのだ。

しかし、それ以前の手作り中心の時代、いわゆるマニュファクチャリングの時代においては、ターゲットになるのは限られた人たちだけだったかもしれないが、生産者と顧客とが、顔をつき合わせて、コミュニケーションしながらモノ作りをしていた。そう考えると、本来マーケティングとは、インタラクティブなものなのだ。それが、大量生産を前提とするマス・マーケティングの時代になって、ワン・ウェイに変形してしまっただけのことだ。

もちろん現代でも、こういったインタラクティブなワン・トゥー・ワンのマーケティングがなくなってしまったわけではない。たとえば、美容室での、美容師とお客さんのやり取りなどは、その典型だろう。顧客のニーズや要望を聞きながら、場合によっては「言外の言」を汲み取りながら、お客さんの求めるヘアスタイルを仕上げてゆく。寿司屋のカウンターでの、板前さんとお客のやり取りにおいても、同じようなインタラクションが見られる。

お客さんの求めるものを知り、それにあわせて提供することこそ、マーケティングの本質である。元来「豊かな生活」とは、そういうインタラクティブにニーズに応えてもらえる環境のコトだ。江戸時代の生活は、GDPという意味では決して「リッチ」ではなかったかもしれないが、こういう「ニーズに応えるマーケティング」という意味では、極めて「豊かな」生活環境だったといえる。だからこそ、世界に誇る「町人文化」が生まれる素地となった。

近代産業社会は、モノをあふれさせ、環境を破壊した。確かに、GDPは増大したかもしれない。だがそれは、人々の心を満たすことはないばかりか、逆に、どこまで経済力が増大しても満たされることのない、「心の闇」を拡大するものでしかなかった。21世紀的な生きかたとは、近代産業社会の「負の遺産」から脱し、懐の豊かさでは得られない、心の豊かさを実現することにある。情報社会の持つ意義は、ここにこそ求められるべきなのだ。


(11/02/18)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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