「普及する」ということ





アラブ・アフリカ諸国での民主化運動のきっかけとなったことで、facebookに代表されるソーシャルメディアが、またぞろブームになり、いろいろなところで話題となっている。しかし、そこで語られている内容は、日本の生活者の情報行動を見続けてきたものとしては、どうもしっくりこない。経済誌やビジネス書で、巷間いわれているような「使われ方」では、日本では普及しないのだ。

ポータルサイト、検索サイトにはじまり、youtubeのような画像サイトもそうだし、Blogにしろ、SNSにしろ、すべて日本で普及したものは、当初、エッジな人たちが使っていたり、海外での一般的な使われ方とは、大きく異なる「利用法」が「開発」され、それによって定着したものばかりである。というより、そういう「先端的」な人は、日本ではマジョリティーではないし、情報機器が、人間を変えることもないからだ。

役に立つ、情報や人脈を広げられる、可能性を拡大する。そういう「お題目」はさておき、ヴォリュームゾーンにヒットし、メジャーになるまで普及したサービスを貫くキーワードはただ一つ、中川淳一郎氏が鋭く指摘したように、「暇潰し」である。若者が暇潰しの「ネタ」として使える、と気がついて初めて普及するといってもいい。この30年間、「役に立つ」ツールは、死屍類類ではないか。

今の若者にとっては、「ネタにならない情報」は意味がないし、見向きもされない。価値があるかどうかは、その情報が面白いか、楽しいか、自分にとって好きなものかということだけである。それ以外の情報は、無意味と言っていい。若者が新聞を読まないのも、面白くないし、ネタにもならないからだ。ジャーナリスティックな記事など、ランダムな文字列と同じように見えてしまう。

さてfacebookだが、これが日本の若者の間でポピュラリティーを取るためには、構造的問題を孕んでいる。facebookすぐれている点は、実名が出ていて、すぐに当人のプロフィールとマッチングできるところにある。確かに、仕事を頼めそうな人を探す場合には、こういう機能は強い味方だ。その人の評判や信頼性まで含めて、かなり正確に捉えられる。

だが、そもそもそんな強い目的意識ではなく、だらだらと楽しく暇潰しをしたいがために、そこにいる人にとっては、この機能はどう見えるだろうか。イベント会場で、そこに自分がいることが、たちどころに公開されてしまうようなものである。いくらコンテンツ自体が面白いといっても、そんなイベントに参加したいと思う人がいるだろうか。

ただでさえ、30代以下の若い人々のあいだでは、人間関係の輻輳化が顕著である。人間関係においては、キャラの使いわけが極めて重要なのだ。Aというコミュニティーと、Bというコミュニティーの両方に属しているとき、Aコミュニティーで取るべきキャラと、Bコミュニティーで取るべきキャラは、違ってるのが当然なのだ。ここで、キャラの使いわけをしていることがばれるのは致命的である。

それ以上に、Aコミュニティーのメンバーに、Bコミュニティーにも属していること自体が知れてしまう方か、より危険かもしれない。彼ら、彼女らにとっては、全てが伝わってしまうことは許せないことなのだ。日本は、ただでさえ、プロフィールが伝わりやすいし、知れてしまう社会だ。だからこそ若い人たちは、伝わらないように、知られないように、並々ならぬ努力をしている。

ソーシャルメディアは、そもそも拡散型のコミュニティーを基本とし、自然のままではプロフィールが伝わる手段のない社会から登場してきた。こういう社会にオプティマイズした機能は、日本のような何でも「見えてしまいやすい」からこそ、「見せなくする」ことに汲々としている社会では機能しない。インターネットコミュニティーに対するニーズは、現実社会より「隠れやすい」コミュニティーだからこそ高いことを忘れてはならない。

日本においては、ソーシャルメディアは人間関係のツールではあるが、「情報メディア」ではない。Blogやtwitterの主たる使われ方も、個人が情報発信するツールとしてではない。スターでも友人でも何でもいいが、発信している人の「そばにいる気分になれる」ツールになっているからこそ、人気が高いのだ。確かに仕事には使えるが、仕事モードとプライベートモードが違うのが、日本のヴォリュームゾーンなのだ。

かつて上昇志向があった頃は、都会のエリートが、上から目線でヴォリュームゾーンの大衆を引っ張る構造が、日本にもあった。世界には、今でもこういう構造を持っている国や社会も多く存在する。しかし、21世紀の日本は、明らかにその段階から抜け出している。というより、高度成長からバブル崩壊を経て、上昇志向の「まやかし」に、若者が皆気付いてしまったのだ。

上昇志向を持ち、都会に出て成功を目指そうと思っても、背伸びした自転車操業の生活に追われた挙句に、成功する可能性は極めて低い。逆に、地元に残って、そこそこ充実した暮らしを目指せば、それなりに楽しく幸せな生活が送れる。こういうヴォリュームゾーンの人たちが、皆やってるからということで、次々にユーザにならない限り、今の日本では「普及」は難しい。

逆に、一部のアーリーアダプターやスノッブな人たちが、いくら熱狂的に受け入れても、所詮はマイノリティーの「ロングテール」の域を出ない。ロードサイドでまったりとした生活をしている人たちが愛用するソーシャルメディアのカタチ。これこそが、日本のソーシャルメディアのメインストリームである。使いかたは、送り手が決めるのではなく、ユーザ自身が面白いか、楽しいかで決まる。これに勝ち残ったものだけが、「普及」するのだ。

欧米でgoogleが検索エンジンの王者の座についても、日本では長らく(今も)yahooのアクセスが多く、人気を保ってきた。それはgoogleは暇潰しにならないが、yahooはyahooのポータルの中だけ見ていても、充分暇が潰せて楽しいからだ。しかし、昨今のティーンエージャーは、「おバカ」とか「特殊な検索ワード」を入れることにより、googleが充分楽しい暇潰しの道具になるコトに気付き、そういう「活用」を始めた。

それとともに、日本におけるgoogleのアクセス数も、飛躍的に上昇し始めた。それはgoogleが、ティーンズの暇潰しの道具となったから普及したのだ。すべてのインタラクティブ・サービスについても、コレと同じこと。facebookも日本で普及する可能性はあるが、その時には、今語られているような使われ方から「進化」し、換骨奪胎された「受動的な暇潰しのツール」となっているに違いない。インタラクティブビジネスで稼ぐ秘訣は、この「普及」の意味がわかっているかどうかにある。


(11/02/25)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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