グローバル化の基点





日本人がグローバルに活躍する際、ボトルネックになるコトのひとつが、「ディベートに弱い」ことだ。ディベート力は、英語ができる、中国語ができるという「語学力」とは、違うレベルの話だ。そもそもネイティブである日本語であっても、ディベートができる人の方が少ないのだから、なにをかいわんやである。もちろん、これは議論が全くできないということではない。

「暗黙の了解」や「言外の言」を隠れ蓑に、議論が苦手なヒトが日本人には多い。しかし、議論が苦手なひとばかりではない。自己主張の強い人は、日本人にもたくさんいる。そういうヒトは、けっこう議論好きだし、理屈の勝負には自信を持っている。自説を曲げず主張し、それを押し通すということなら、議論に勝てるヒトはそこそこいるのだ。

しかし、ディベートは自己主張ではない。自分の立ち位置や主義主張とは関係なく、議論のための議論で勝てるかどうかがポイントだ。変幻自在な、議論ためのテクニック。日本人がディベートに弱い理由は、ここに求められる。その原因は、日本と海外、特に欧米文化圏との、親子の関係の違いにある。日本の親子関係では、家庭内でネゴシエーションがない。説明や理由が求められない中で育ったのでは、議論に強くなれるはずがない。

これはそもそも、日本の親、特に母親が、思いつきや思い入れで子供に要求することが多いことに基づいている。子育てがある意味、戦略的体系的に行われていれば、親から子供への要求は、非常にロジカルなものになる。そういう論理的な指示が刷り込みとなり、論理的な考えかたに親しみを覚える一方で、自分がそれを否定したいときには、親以上に緻密な論理を示し、それで「論破」しなくてはならない。

こういう環境で育てば、議論に強くなるわけである。このような子育ての態度は、親子関係を人間関係と思っていない親が多いコトに起因する。実は、子供は人間関係に敏感である。親子の関係を、きちんとした人間関係として捉え・扱えば、子供はきちんとしてくるものだ。子供にいつまでも子供でいて欲しいと願う傾向が、日本の親には強い。しかし、それなりの人格をみとめ、駆引の相手として育ててゆくことがが大切なのだ。

鳶は鷹を生まないではないが、自分ができないことを、子供に要求しても始まらない。ところが、日本では自分を棚に上げて子供を「教育」する親があまりにも多い。遺伝も環境も含めて、親の影響は思った以上に大きい。親自身が変わらなくては、子供は変わらない。子供を教育したければ、自分がまず変わる努力をすることからはじめなくてはいけない。その第一歩が、ロジカルな親子関係を築くことだ。

英語教育の問題より、なあなあではない、駆引のできる人間関係を構築する力のほうが、余程グローバルに通用する国際人を育成する上では役に立つ。英語力が多少低くても、ディベート力の高い人間の方が、タフ・ネゴシエーターになれる。逆に、ネイティブ並の英語力を持っていても、ディベート力の弱い人間など、まさしく鴨ネギ。相手にとっては、なんともオイシイ「お客さん」である。

グローバルに通用する人材を育てたければ、親子の関係、家庭のあり方をグローバルスタンダードにあわせる必要がある。学校の責任、家の外側の責任として、他人に押し付けてしまうことが、すでにグローバルから外れている。自ら率先して責任を果たす。リーダーシップの基本はここにある。グローバルに活躍する人材にまず必要なのは、リーダーシップである。

家庭の中の人間関係、親子のあり方を変えてゆくことで、人材育成のバッドサイクルをグッドサイクルに改めることができる。そういう意味では、日本のグローバル化のために必要なのは、何よりもまず「家庭のグローバル化」である。意識を改め、人材を育ててゆくためには、知識より人間関係を教えることが先決だ。そのためには、親自身が率先して変わってゆくことがカギとなるのだ。


(11/03/04)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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