入学試験考





京都大学、早稲田大学をはじめとする有名大学の入試を舞台に引き起こされた、ケータイカンニング事件。ケータイの利用というところが、ちょっと時代っぽさを感じさせるということか、必要以上に話題となっているが、犯人の自白が公開されると、テクニック的には辞書の持ち込みと全く変わらない、古典的なカンニングであることが判明した。基本的には、監督官の不行届以外の何者でもない事件であった。

そういう意味では、何か新しい要素があるワケではなく、テクノロジーの進歩で、より「持ち込みやすいカンペ」が作り出されるのと同じレベルの話である。もちろん当人の責任、監督官の責任はあるのだが、やじ馬的な興味はさておき、第三者がことさら声高に騒ぎ立てるようなものではなく、当事者間で解決すればいいレベルの問題に過ぎない。しかし、この事件が持つ社会的な意味は、他のところにある。

それは、「そもそも、大学の選抜試験として、知識の量を問うテストを行うことが、今日的な基準からして意味があるか」という問題である。学力テストによる選抜は、日本においては、ある意味19世紀からほとんど変わっていない手法だ。大学受験でいえば、駿台予備校は大正時代、河合塾は昭和初期の設立である。それが今でもトップクラスに君臨していることは、大学入試の仕組みが、その頃から変化していないことの裏返しである。

もっといえば、大学というシステムが、そういう選抜法でしか生徒を選べないとするなら、その存在自体が、今のような21世紀型の情報社会で意味を失っていると考えるべきかもしれない。時代についていけないからこそ、「百年一日」のような方法論を取り続けている。その原因としては、大学自体の目的喪失があるだろう。生徒の目的喪失はよく指摘されるが、大学自体も存在意義や目的といった理念を見失っているところが多い。

昨今、学生の就職率の低下が問題になっている。基本的には、「寄らば大樹の陰」で有名大企業に入りたがる学生が多い一方で、中堅企業は学生を取りたくても来てくれないという、求人と応募のアンマッチングが原因なのだが、大学自体が「どういう人材を養成するか」という目的意識に欠けてしまっていることも影響しているだろう。大学というシステム自体が、社会との間でコンフリクトを起こしていることも、就職率低下の要因の一つかもしれない。

そもそも、人材の選抜法は、学力テストだけではない。目的によっても変わるし、時代によっても変わる。時代には時代にあった選抜法がある。たとえば、中国の科挙などは、時代と選抜法という関係においては典型的だろう。科挙のシステム自体は、今から見るといかにも大時代的だ。しかし、その当時の社会においては、それなりの合理性があった。だからこそ、千年もシステムが続いた。しかし、ひとたび社会との不適合を起こすと、あっけなく廃止されてしまった。

学力テストによる選抜も、近代産業社会を前提とするなら、それなりに意味がある。右肩上がりの経済をベースとしつつ、人間系での事務処理を労働集約的にこなさなくてはいけなかった時代。組織運営のためには、あるレベルの知識や処理能力を持った人材を、大量に確保する必要があった。こういう社会では、学力テストが人材選考の基本となるのもうなずける。しかし、もはやそういう時代ではない。

社会の情報化とともに、知識量の多寡は、評価の基準ではなくなった。事務処理や提携作業は、人手を煩わせるより、コンピュータで処理した方が、余程速く、安く、大量にこなすことができる。それは、人間がやるべき作業が定型的な対応であった単純な社会から、常に新しい答えを生み出すことを求められる複雑な社会に変化したことと、軌を一にしている。知識ばかり多くても、それを利用して問題解決する「知恵」がなくては意味がない時代なのだ。

そういう時代に求められる、知恵を生み出せる人間は、人を直に見て選ぶしかない。間接的な試験の結果では、コミュニケーション力や課題解決力といった、人間力を見ることができないからだ。学力試験で人間性がわかるワケがない。21世紀型情報社会で求められる人材を選び出すためには、学力試験自体がすでに無力なのだ。人間性を見抜ける眼力のある人間が、直接メガネにかなう人間を抜擢するしかない。

そういう意味では、そもそも試験の成績でポジションが決まる官僚組織では、人材を選び出すことは不可能だ。偏差値で成り上がった人間が、全人格的に優れていることなどありえない。これがいわゆる「バカの壁」で、人間は自分より能力の劣った人間は定量的に判断できるが、自分より優れた人間を客観的に評価することはできないのだ。そもそも、学力試験というのは、そういう組織にオプティマイズしている。

それならば、自分が全責任をとるという人間が、自分の存在をかけて判断するしかない。企業でいえば、オーナーがいて、その人が一人で全て独断で判断するしかない。これなら、あるレベルのクォリティーのある人材を、確保することができる。もっとも、大学の教授陣や理事会メンバーに、そういう「見識」のある人材がいるとは思えない。どうやら、入試制度を時代に合ったものにする以前に、やはり大学自体の改革が行われなくてはいけないようだ。


(11/03/11)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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