常識の呪縛
人間は、常識や定説に囚われがちだ。というより、自分が思考したり、判断したりするのが面倒な人が多いからこそ、常識や定説が生み出される。それに従って行動している限り、リスクや責任を回避できるというのが、常識や定説の本質である。だから、自分が責任をもって判断する気があるのなら、常識や定説に囚われる必要などない。逆に、それが枷となって自由な発想が妨げられてしまうのでは、本末転倒もはなはだしい。
そもそも、世の中に客観的な絶対真理は存在しない。一神教の教義のように、ある生きかたや考えかたを共有する集団内部で共有される、「主観的な絶対真理」というのは存在する。しかしそれは、メンバー間で「存在する」認識が共有されていることにより担保されているだけだ。実際、違う「神」を信奉する一神教同士、あるいは同じ「神」を信奉していても、教義の解釈が違う教団同士が、血で血を洗うような宗教戦争を繰り広げる例は、世界史上いくらでも見出すことができる。
一般的には、絶対的な真理を追究していると思われがちな、自然科学においても同じコトがいえる。自然科学には、数学や物理学のように、論理的に体系が構築されるタイプの学問と、生物学や天文学のように、現時点までに認識されたファクトを体系化するタイプの学問とがある。確かに、より真理に近づこうというモチベーションはあるものの、そのどちらのタイプにしろ、唯一絶対な真実を前提としているワケではない。
数学や物理学においては、日常的でタンジブルな現象を扱う範囲はさておき、その体系が高度になればなるほど、いわゆる「実生活の常識」とは違う体系が構築される。ユークリッド幾何学に対する非ユークリッド幾何学、ニュートン物理学に対する量子力学などが、よく知られたところだろう。これらの学問においては、前提となる公理を押え、それをベースとして理論を発展させてゆく。
従って公理系が変われば、全く違う「世界」が構築されるが、それぞれの世界において理論的な整合性が担保される限りは、それぞれが「正しい」モノとして成立してしまう。そして、その公理系自体も、純粋な理論構築がしやすいよう、恣意的な選択に基づいているコトが多い。ニュートン力学は、摩擦も抵抗もないコトを前提として構築されているが、現実的にはあり得ないし、実用にはならない。しかし、理論化し基本的な公式を体系化する上では、有用なのでそうしているのだ。
生物学については、もっと身近な例がある。アラフォー・アラフィフの人なら、高校の授業などで、「巨大隕石が地球に衝突し、気候が大幅に変化したため、恐竜は絶滅した」と習ったことがあるだろう。しかし、今の子供は「地球の気候変化に対応し、恐竜は鳥類に進化した」と習う。生物の進化の流れが全く変わってしまったように見えるが、生物学の成り立ちを考えると、不思議なことでも不義理なことでも、なんでもない。
このような変化が起こったのは、20世紀末以降、主として中国奥地で、恐竜から鳥へ進化する過程の化石が大量に発見され、ミッシングリンクが埋まったためだ。旧来の理論は、それまでの情報では「絶滅」としか判断できなかったから、そう結論付けたに過ぎない。新たな情報が得られ、それも含めて考えれば「進化」と判断される。とはいえ、今の理論もまた、新たな発見があれば、それを含めて整合性が取れるように書き換えられるだけだ。
何事においても、発想の幅を最初から狭めてしまうコトほど、無意味なことはない。それは、自ら可能性を切り捨てていることに他ならない。ありそうもないこと、ありえないことでも、考えてみることに意味がある。結果的にその選択肢が否定されたとしても、なぜありえないのかをきちんと理解することにより、新たな発想が広がったり、何かを思いつくヒントに繋がったりするコトも多い。見て見ぬフリをしても、そこからは何も生まれてはこない。
発想が貧弱だったり、マンネリに陥ったりしているヒトは、けっきょくこの常識や定説の罠に陥り、悪循環にハマっていることが多い。過去の事実や、今目の前に見えているものにこだわり、がんじがらめになる必要などどこにもない。その桎梏から抜けられないというのは、単に自縛に過ぎない。自分の可能性を狭めているもの、それは他人でも社会でもなく、自分自身のスタンスなのだ。今の日本に一番必要なのは、このような呪縛からの解放なのだ。
(11/04/22)
(c)2011 FUJII Yoshihiko
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