自助努力





東日本大震災も、東北新幹線の運転再開に代表されるような、社会インフラの普及が一段落し、各地の被害状況によってムラはあるものの、全体としては「救援」のフェーズから、「復興」のフェーズへと、大きく歩みを踏み出し始めた感がある。さて、復興のために最もカギとなるものは何だろうか。資金も重要だし、エネルギーに代表されるような資源も重要だ。しかし、それらを活用する意味でも、それ以前に必要とされるものがある。

それは当事者たる人々の、自助努力である。そもそも近代資本主義社会の原理は、合理的精神を持った人間が、自立的に行動することにより、それぞれが独立的に成長・発展し、それが社会全体の活力源となるところにある。誰かに頼ったり、他人に責任転嫁したりするのではなく、自ら率先して起ち上がり、自らの力で発展することが、なにより社会を動かしてゆくモチベーションとなっているのだ。

もちろん復興に向けて、自助努力の精神に満ち溢れているヒトも、大勢いる。だからこそ「がんばろうニッポン」という言葉が、空虚に響くことなく、力強い声援に聞こえるのだ。しかし、残念なことは、全ての人々が、自助努力のマインドを持って、前向きに進んでいこうとしているワケではない点である。もともと、戦後の日本、それも農村部においては、セルフ・ヘルプの精神を身につけた人は、決して多くなかった。

これは、半年前ぐらいに盛んに行われていた、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に関する議論を見てみればよくわかる。一面的な報道だと、自由貿易の実施は、日本の農業を崩壊させるから、農家はみなTPPに反対だ、ということになってしまう。しかし、積極的に農業に取り組み、農業から高い収益をあげている農業経営者は、みなTPPには大賛成なのだ。そのほうが、結局は競争力が高まり、世界に通用する農業を実践できるからである。

つまり、やる気があり自助努力をしている農業経営者は、決して反対ではないのだ。では、誰が反対しているのか。それは、農業そのものをやる気はなく、ただ形式として農家を続けていることにより得られる「補助金」が欲しい「偽装農家」の人たちだ。彼らは、農業をしたいのではなく、補助金が欲しいから農業をしているだけであり、実際の行動を見ても、農作物を市場で売却し、収入を得るために農業をしているのではないことはすぐわかる。

公共事業や補助金といったバラマキ行政が成り立つ裏にいるのは、悪知恵の発達した官僚たちだけでない。そういう官が作った利権にほいほい食いついて、自助努力なくおいしい思いをしようとする民間人が、共犯者として必ず存在する。バラ撒きたい官僚と、バラ撒かれたい自助努力なき人々。この両者があってはじめて利権構造は出来上がるし、官僚が喉から手が出るほど欲しがっている、天下りポストとそのためのプール資金も生まれる。

自助努力の精神を持つ農業経営者と、利権にたかろうとする偽装農家と、数的にどちらが多いかといえば、進駐軍と維新官僚の生き残りが、戦後のどさくさの中ででっち上げた、悪名高き農地改革の産物としての「自作農」のなれのはてとしての「偽装農家」の方が、圧倒的に多数である。だからこそ、彼らの利益代表たる農協は、TPP反対となってしまうのだ。問題は、東北地方においては、このような構造が色濃く残るところにある。

4兆円の補正予算案が成立して、国による復興資金の投入が始まろうとしている。本当に地域の復興、経済のV字回復を望むなら、資金は自助努力の精神にあふれる事業家に傾斜配分すべきである。もっとも、そういう事業家は、企業家精神にあふれているので、民間の資金も積極的に集めるであろう。しかし、復興のための公共投資は、民間でも投資したくなるような優良案件にこそ、優先的に投資すべきである。それは、復興にはスピードが必要で、時間を稼ぐには投資を集中させなくてはいけないからだ。

もうお分かりであろう。このままいけば、国による復興資金は、結局は新たなバラマキ行政以外の何者にもならなくなってしまう。被害を受けていても、代替経路があり、誰も通らない道路なら、急いで復旧する必要はない。しかし、タメにする公共事業は、こういうムダな工事がお好きである。それは、目に触れにくい場所のほうが、サヤを抜いて利権構造が作りやすいからだ。そして、「東北復興公社」みたいな公益法人を作って受け皿にし、そこにプールした資金で、天下りのイスを増やす。

これこそ、災害を喰いモノにする悪魔以外の何者でもない。被災者・被災地域のために、みたいな正義面・善人面ができるだけに、ますますタチが悪い。全体としての効率を考えれば、公共資金の投入自体が悪いというワケではない。悪いのは、バラマく官僚とそれに喰いつく住民との、悪のタッグマッチが再現してしまうことだ。それを防ぐためのキーワード、それは自助努力である。公共の資金を投入する相手は、自助努力の精神を持つ者に限られる。そのためには、「官」の影響力を排除するのがなにより前提だ。もっともその前に、「菅」の影響力を排除しなくてはいけないのは、いうまでもないが。


(11/05/06)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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