安物買いの銭失い





90年代のバブル崩壊から、はや20年。サラ金の金利は知っていても、預金の「金利」を知らない世代が、もはや成人に達する時代となった。かつては、銀行に預金するだけで、お金がお金を生んで増えてくれた。80年代には、リスクのない預金でも、郵便貯金やMMFなどでは、年利7%以上で廻ってくれたものだ。これだと複利なら、10年で倍増する勘定だ。だからこそ、みんなこぞって貯金した。

それが今では、ローリスク・「ノー」リターン、ハイリスク・ハイリターンの世の中だ。お金を増やすためには、リスクをとらなくてはならない。安全な運用では、いくら多額を預けたところで利子は生まない。これは、バブル崩壊後の日本の特殊事情というより、マネーマーケットのグローバル化により、日本でも資金調達の方法が変化したためである。ある意味、非可逆的な流れということができる。もはや、預金に利子がつくような世の中ではないのだ。

金融市場におけるハイリスク・ハイリターン化は、貸し手の側から考えたモノであるが、借り手の側から考えると、自らのリスクに応じたプレミアムが課せられるということになる。金利が上昇する分、借り手の側の現在価値は、より小さくなってしまう。すなわち、リスクがあるものは、その分安くなってしまうことになる。これは、経済理論を持ち出さずとも、賞味期限がきた食材や、一部が傷んだ野菜などが安売りしなくては売れないことを考えればすぐわかるだろう。

世間では、デフレ、デフレと喜んでいる向きもあるが、安いというコトの裏には、同時に安いだけのリスクがあるということも忘れてはならない。「安物買いの銭失い」とはよく言ったモノで、安いものにはリスクはつきものなのだ。そのリスクを自分でコントロールできたり、ポートフォリオの中で吸収できたりするのなら、安物は「お買い得」品となる。しかし、それができない人にとっては、格別問題が起きなかったといっても、それは単に運がいいだけのことだ。

リスクヘッジのポイントは、「自己責任」というところにある。何か起こっても自分で対応でき、問題解決ができるなら、堂々と安物を買っていい。しかし、そこにどういう危険性があるのかわからなかったり、何か起こったときに対応できないのなら、多少安くても、その分手痛いしっぺ返しがくる可能性がある。今の日本社会が危険なのは、自分がリスクに対応できるかどうかはもちろん、そこにリスクがあることすら意識の外側に行ってしまった人があふれていることだ。

昭和の日本は、今より余程「自己責任」な社会だった。踏切には警報機がないし、列車のドアは走行中でも簡単に開く。それでも、事故が起きるわけではない。みんな、そこにあるリスクと、自分の適応力を知っていたから、自分で安全と思える範囲で、適宜対応していたのだ。喰い物だって、家庭へはまだ冷蔵庫が普及していなかった昭和30年代には、どのくらいまでなら大丈夫かという目安は、生活の知恵として身についていた。

もっというならば、世の中に「悪人」が多かった分、誰をどこまで信じていいのか、という基準も、みんなそれなりに持っていた。あやしいボラれる店と、誠実で良心的な店を嗅ぎ分ける嗅覚も、なくてはならないものだった。世の中が不親切で情報の少なかった分、各人が自衛しなくては活きていけなかったからだ。魚を捌いたり、大工仕事をしたりできなければ、暮らせなかったのと同様に、そういう生活の知恵を持っていなくては生きて行けない世の中だったのだ。

毒キノコが、いかにも毒々しい姿形をしているように、誰もが明らかにあやしいと思う話は詐欺ではない。しかし、健康な人には何の害もない細菌が、衰弱した人には致命傷になるように、怪しい話を嗅ぎ分ける抵抗力が衰えてしまった人は、簡単に罠に嵌ってしまう。まさに「詐欺はダマされるほうが悪い」というように、受け手の側次第なのだ。「君子危うきに近づかず」。「自己責任」が取れない人は、そもそも安物にはのらないほうがいいのだ。


(11/05/13)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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