ハダカのブン屋
最近、プリントメディア退潮の中でも、際立って落ち込みが激しいのが、夕刊紙や総合週刊誌である。これらのメディアの特徴としては、「相手を叩く」記事が中心となっている点が上げられる。こいつが悪い、あいつが悪いと、悪者をつるし上げて溜飲を下げる。悪意を持っている相手や、確信犯ならば、叩くのも意味がある。しかし、多くの場合は、叩いたところで何も変わらないのがオチだ。
事実ではあるが、誰も知らないコトを広く知らしめることは意味がある。また、事実を事実をして指摘するのは意味がある。この範囲のファクトベースのコンテンツは、ジャーナリズムといえるかどうかはさておき、報道としては意味がある。しかし、周知の事実をことさらあげつらっても意味がない。威張って自慢するのがジャーナリズムではない。ジャーナリズムは、視点が重要なのだ。
そもそもジャーナリズムにおいては、批判のための批判では意味がない。批判するなら、最低限、よりマシな提案をしなくてはいけない。相手をののしることではなく、世の中にポジティブに貢献することが、がジャーナリズムの役割だからだ。昨今よく見られるように、政府や東電を批判しても、それだけではなにも生まれない。確かに政府や東電の責任は重いが、そんなことは誰もが感じていることである。
批判が批判で終わってしまっては、井戸端会議の話題のレベルだ。もとから、そういう箸にも棒にも引っかからないような、取るに足らないネタとして扱うなら、別に何も問題はない。それを、なにやら鬼の首でも取ったような書きっぷりで、うやうやしく立派そうな記事にしても、そこからは何も生まれない。大事なのは「その先」があるかどうかだが、、これが全く欠けてしまっているのが現状だ。
おどろおどろしく脅したり、ことさら煽ったりする。こういうネタに対するニーズは、それなりにある。人々は、「ニュース」に対してエンターテイメント性を期待している。それは、有名人や芸能人のスキャンダルに惹かれる心理と同じものだ。確かに、そこをつつけばお客さんが集まる。しかし、そこに迎合しては、ジャーナリズムにはならない。それはジャーナリズムではなく、スキャンダリズム、センセーショナリズムだ。
それでいて、人一倍「正義の味方」面するのだから困ったものだ。有名新聞社の名刺を持ち、新聞社のご威光を背にすると、高性能なモビルスーツに搭乗したような気分になるのかもしれない。しかし、勘違いしてもらっては困る。もともと戦い方が下手なヤツは、どんな高性能なモビルスーツに乗ったところで、勝負に勝てる保証はない。それより、制御しきれずに自滅してしまうのが関の山だろう。肩書のご威光とは、その程度のものだ。
もちろん、自由な言論は必要だ。その基本は、主義主張や思想信条が違っても、相手の立場を尊重することにある。そして、ジャーナリズム全体の公平性は、ジャーナリストが、相互に相手の言論の自由を尊重することによって担保されている。主義主張や思想信条を戦わすことがあっても、いや、自由に議論するためには、相手の人格を否定したり、相手との間にヒエラルヒーを築いたりしてはいけない。
しかし、日本の「ジャーナリズム」は上から目線で、もったいぶって、偉そうにモノを言う。はなから相手を見下した物言いだ。相手を威嚇して、相手がへつらうなら、それでいいかもしれない。しかし、そういうブラフが通用し、それで部数が伸びる時代はとっくに終わった。この期に及んでも、そういう姿勢を変えられないのは、時代の空気が読めない「ハダカの王様」でしかない。
東日本大震災以降、新聞・テレビ・雑誌など、あらゆるマスコミにおいて、ジャーナリズムの劣化が顕著だ。まあ、もとよりジャーナリスティックな視点は持てていなかったのだが、未曾有の災害を目の当たりにして、体裁のつけようもなくなったというのがふさわしいだろう。それならいっそ、正義ぶること自体をヤメてしまった方がいい。新聞はいらない。テレビはワイドショーだけでいい。ジャーナリズム気取りさえヤメてくれれば、ゴシップだってそれなりに存在意義はある。
(11/06/17)
(c)2011 FUJII Yoshihiko
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