井の中の秀才





大震災以降、メディアがつまらない。別に今に始まった話ではないので、メディアのつまらなさが、誰の目にもあらわになった、というほうがより適切かもしれない。もちろん、エンターテイメント系では、テレビ番組でも雑誌記事でも、面白いコンテンツはたくさんある。問題なのは、そっちではなく、多くのメディア企業が「自社の顔」とおもっているような、ハイブロウなコンテンツの方である。

菅首相の支持率は、地に落ちている。アンケートをとれば、国民の過半数が「首相の器ではない」「すぐヤメるべきだ」と答える。菅首相がダメなことなど、もはや常識中の常識である。もはや、批判の対象にすらならないレベルまで堕ちている。それを、十年一日のごとくあげつらって、菅首相批判をしてみたところで、何も生まれない。ネタは多いので、批判することはたやすいと思うが、それを求めている人は少ない。

ここで国民に訴えかけて意味があるのは、批判や評論ではなく、今すべきことの提案である。国民も、そういう前向きなヴィジョンを聞きたいはずだ。政治家には、いろいろなしがらみがある分、自由にヴィジョンを提示できない弱みがある。まさに、メディアの役割は、自由にそれが言えるところにあるのではないか。正義の味方ぶるのではなく、自分の意見を堂々と語るからこそ、社会的な存在を認められるのではないか。

批判ではなく、提案が聞きたいのだ。そのためには、実現性、実行可能性に囚われることなく、具体的な策を提示する必要がある。規制緩和も、観念論としての緩和ではなく、「被災地においては、対象となる項目を明示して、看護師による医療行為を認める」とか、「校舎が被災した学校においては、通信制の義務教育を認める」とか、具体的な提案を打ち出すべきなのだ。そういう記事が載っている新聞や雑誌ならば、手にとってみる気が起きるかもしれない。

しかしよく考えてみると、この「批判するだけで、提案しない」というのは、極めて日本的な情景であり、日本の組織全てに共通する「日本病」の症状ということもできる。日本において、勉強が得意で高偏差値を取る「秀才」が重用されて久しいが、彼らの特徴が、この「批判するだけで、提案しない」メンタリティーなのだ。かくして、秀才の集まった組織は、3人寄れば相手を批評しあうことになる。

その際たるものは、官庁だろう。昨今、高級官僚になろうという人材にはロクなヤツはいないが、それでも採用人数が多い分、何人かは人間力の高い人物も紛れ込んできてしまう。しかし、こういう「才能」のある人材は、官僚組織の中では、徹底的に叩かれ、いじめられ、出世街道から干される。外部からの視点がない、閉じた組織だけに、「出る杭は打たれる」という、典型的な日本型組織のメンタリティーが発揮されることになる。

また秀才の多い会社は、「社内評論家」ばかりで、だれも実際にリスクを取って実行しようとしないという特徴がある。高度成長期〜70年代までの日本では、好調な業種であれば、戦略的な経営上の舵取りをしなくても、追い風に乗っているだけで、ある程度の業績を残すことができた。誰が経営しようと、何もしない以上、なんら違いはない。だからこそ、「批判のための批判」で、単に相手を貶めさえすれば、それでことたりた。

本来なら、いわゆる秀才タイプは、決して経営者向きではない。経営者に求められる、リーダーシップや判断力は、努力や教育でどうにかなる資質ではなく、秀才が得意とするコンピタンスではフォローのしようがないからだ。しかし、企業は一瞬にしてメンバーを総取替できるものではない。かくして、バブルが崩壊し、「追い風」は吹かなくなると、このような企業はグローバル化について行けなくなり、負け組になったり、M&Aされたりすることになった。

大震災が契機となって、日本が変わるという論調は、いろいろなところで聞かれる。確かに、意識や行動など、多様な変化が起こることは間違いない。、しかし、その中でももっとも重要で本質的なのは、この「人々が、「秀才的なるもの」の無意味さ無内容さに覚醒し、愛想をつかす」という点ではないだろうが。大きな組織に属する、都心部の生活者はさておき、多くの日本人が今までダマされてきたツケに怒っている。霞ヶ関こそ、井の中の蛙なのだ。


(11/07/01)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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