トップの器





日本では、高度成長期以降、大企業の社長といえば、生え抜きのサラリーマン社長が一般的になった。90年代以降のグローバル化で、外資による買収や、選択と集中によるM&Aなど、社長のキャリアも多様化したものの、まだまだ事例としては多い。その一方で、日本企業でもトップの経営判断が求められたり、経営陣のリーダーシップが必要とされる局面が多くなってきた。このような要求に対し、サラリーマン社長で勤まるのだろうか。

サラリーマン社長で問題なのは、多くの日本企業において、社内の指揮命令系統のポジションと比例した給料になっている点である。かつての日本企業の代名詞とも言える、終身雇用・年功制の下では、一般社員においては、社歴を重ねるとともに地位が向上し、給料もそれにシンクロする形で上昇した。多くの企業において、職階と給与ベースがシンクロした人事体系を取っていたし、未だにその影響は色濃く残っている。

しかし、社長は中間管理職のトップではない。執行役員制は、元来、業務のリーダーとして責任を持つ執行役員と、経営者として会社の経営に責任を持つボードメンバーを峻別し、役割や責任を明確化するために取り入れられた制度である。そういう意味では、執行役員までは、ある意味被雇用者というか、中間管理職のトップと考えられないことはない。しかし本来、その分ボードメンバーは役割が違うのだ。

ボードメンバーの報酬は、一般の従業員のような、業務に対する報酬ではない。経営責任を果たし、業績を上げたことに対する分配なのだ。しかし日本企業においては、長らく経営が不在で、トップマネジメントという意味でのCEOはおらず、社長ですらCOOレベル、一般の取締役は、今で言う執行役員でしかなかった。このため、ボードメンバーの報酬も、一般従業員の給与と同じレベルで捉えられていた。

人事制度というものは、会社が倒産でもしない限り、急に変えることは難しい。社長は経営者ではなく、「その会社で給料が一番高いサラリーマン」という意識は、今も色濃く残っている会社が多い。本来、経営者というのは、自らのリスク・責任で舵取りをする以上、極めて「ハイリスク・ハイリターン」な立場である。しかし、このような経緯がある以上、日本企業のトップは、極めて「ローリスク・ハイリターン」な存在となっている。

こういう面で、日本において例外的な存在なのが、サラリーマン社長の対極にある、オーナー社長や創業者社長である。このような人たちにとっては、先に企業があってそこに「勤めた」のではなく、自らの人格と企業の存在とが一体化しているところに特徴がある。その事業を行い、世の中に貢献すること自体が、そのヒトの存在感とイコールになっていれば、高い給料をもらわなくても、モチベーションは極めて高い。

企業家精神とは、こういうマインドのことである。そういう精神を持ち合わせていないヒトを、社長としてトップに仰ぐというのは、やはり問題である。ひところ流行ったストックオプションも、本来のあり方は、高い給料に釣られて経営者を目指すのではなく、その事業を行うこと自体が人生の目的であるヒトに対して、後付けで社会からの評価がついてくる、という考えかたである。

もちろん、企業の従業員の中にも、こういうマインドを持っているヒトがいる可能性はある。無給でも良いから、持ち出してもいいから、経営をやりたいというヒトだ。そういうヒトなら、社長の器になるだろう。しかし、どこかの首相のように、単に社長の椅子に座りたいだけとか、ただ単純にもっと金が欲しいからとか、そういうモチバーションしかないひとが社長になってしまうと、その会社には、もはや不幸しか待っていない。

この数年、テレビのニュースやワイドショーでよく目にするが、不祥事があって、お詫びをする場面を考えて欲しい。一般の、給料に釣られたサラリーマン社長は、高級官僚同様、自分に責任がこなければいい、自分の在任中はトラブルなく過ぎてくれればいい、と考えている。だから、リスク対応のときにも、なるべく責任から逃れようと、腰が引けて逃げの姿勢になる。テレビ画面には、その無責任さが、ストレートに写ってしまう。

一方、経営そのものが人格化してしまったような経営者なら、そのトラブルはまさに自分の問題として、がっぷり四つに受け止める。こういう意識を持って取り組むのなら、視聴者の人々に対し、きちんと責任を取ろうとしているという好印象を与える。ある意味、公平無垢な経営、コンプライアンスを重視した経営というのは、こういうノブリス・オブリジェがあってはじめて可能になる。実は、経営者のリーダーシップはここから生まれるのだ。

トップの器は、「なる」ものではなく、最初から「ある」ものなのだ。器がある人間を見抜けること。そしてその人材をしかるべきポジションにつけられること。今の日本企業に求められているのは、この二点だ。無論、欧米の企業でも問題企業は多いし、不祥事・トラブルも多い。しかし、こういうヴィジョンを組織として共有できている企業もまた多い。変化から安定の時代になった以上、ポジションは待っていれば転がり込む利権ではない。適材適所ができるかどうか、それが21世紀の日本企業に求められているのだ。


(11/07/08)

(c)2011 FUJII Yoshihiko


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